本当は恐ろしい儒教
すみません、2024年12月5日 に出しnoteを書き直した。4945文字
内藤博文さんという方の、「本当は恐ろしい儒教」という本。ネットに転がっていたサンプルに興味を惹かれ買った本だ。基本的に儒教の闇に詳しい人って右翼だよね。著者の内藤さんは儒教・中華思想の異民族の野蛮人扱い、平等を認めない儒教論理に差別だ!と大変怒っている。


内藤さんは、儒教はユダヤ人、ユダヤ教から来るとは気づいていない。
夏・殷・商王朝はユダヤ人の王朝。
中国人、韓国人が儒教で頭がイカれていると思っている、異民族を野蛮人扱いし尊皇攘夷とぶち殺すのは、日本も同じだ。だから夷の謎、日本人・漢人の謎が解けていない、気づいていない。それを判って読めば詳しく読みやすく役に立つ本。

「本当は恐ろしい儒教」引用
教祖とされる孔子は、紀元前6世紀から紀元前5世紀の中国大陸で生きた人 物である。 孔子とその思想は、時代の子であった。 孔子の生きた時代の 中国 大陸は春秋戦国時代といわれる長い戦乱の時代だった。孔子の思想は、その戦乱 と不安定の中から生まれたものだ。
中国大陸、 それも華北の中原地帯が戦乱を迎えたのは、周王朝の衰えと外敵の侵攻による。周は紀元前11世紀に殷王朝を打ち倒し、王朝を創始したが、紀元 770年にチベット系の犬戎の侵攻を受けて、都を鎬京(いまの西安近辺)から洛邑(洛陽)に移さざるを得なくなった。洛邑時代の周は東周と呼ばれ、周王室の権威は失墜しはじめ、代わって有力諸侯が台頭がする。
春秋時代、周王室は衰えたとはいえ、権威はまだ維持され、王にかつて栄光の時代があったことを思わせていた。
春秋時代、周王室の血を受け継ぐ諸侯の合言葉は、「尊王攘夷」である。日本では幕末に「尊王攘夷」のスローガンが吹き荒れたが、もとは春秋の「尊王攘夷」に由来する。
春秋時代の「尊王攘夷」とは、衰えた周王室を支え 侵攻してくる異民族を打ち払おうという思想だ。
「尊王攘夷」の春秋時代を生きたがゆえ、孔子の思想には「尊王」が色濃い。彼は、草創期の周王室を尊び、周の文王、武王の時代を理想とした。
そこから生まれる孔子の思想が、「礼」と「仁」である。
それは、戦乱をなくし、徳治めの世を生み出し、周王室を再び反映させるための思想であった。
孔子の礼はもっと深く、礼式が整えば人の心は安定し社会は荒れない。ふたたび、周王室は尊崇されるだろう。
その礼の行きわたった世を作るため、孔子は仁を重んじたのである。
礼楽とは武王の弟・周公旦の定めた、行いを戒め、心を和らげるという思想であり、周の王たちは「礼楽」によって立派な徳治を成してきた。武王とその子・成王を支えた周公旦こそは、孔子の最も理想とする人物である。
孔子は戦乱を納め、秩序ある世界に戻すには、周の礼楽が必要だと説いた。礼楽が復興すれば、偉大な王たちによる徳治も復活する。
攘夷思想
攘=はらう・しりぞける・とる
1. はらう、はらいのける。
2. しりぞける、こばむ、おす。
3. かかげる、とる、おかす。
4. みだす、みだれる、わずらわしい。
古来、中国大陸の住人の葬式儀礼重視は、別格だったと思われる。
中国大陸では祖先崇拝が強かったからだ。祖先崇拝は多くの地域で見受けられるが、中国大陸ではそれが他の地域よりもずっと濃厚なのだ。
中国大陸で祖先崇拝が強烈なのは、独特の「宗族」形成と絡んでいる。「宗族」とは、姓を同じくする父系の血縁集団である。嫡流は「太宗」という本家となり、次男以下は「小宗」という分家になって枝分かれしていくが、もともとの共通の祖先を持つところは同じであり、共通の祖先を敬いつづけることで「宗族」集団は結束していく。

「宗族」とは、父系の血縁集団である。
宗族は、戦乱の多い中国大陸にあっては、住人たちが身を守るひとつの術であった。宗族の中に身を置くなら、血縁として相互扶助の精神が働く。宗族としてまとまれば、困難な時代も切り抜けられたのである。
その宗族集団の根本には、祖先崇拝がある。祖先を祀る祭妃は必要であるうえ、葬儀も厳かな綺麗に則り、執り行わなければならない。
孟子によってはじまった孔子の「聖人」化
儒教がはっきりした形で成立するのは、孔子の死からおよそ3世紀のち、漢帝国の時代だとされる。
孔子の思想を継承し、肉付けしていったのは、孟子と荀子である。孟子は、人間の本性を善とする性善説を説いたことでしられ、仁と義を重んじた。一方、荀子は、人間の本性を悪とする性悪説を説き、後天的な教育を重視した。

そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。
右:荀子:本来悪である人間を礼と楽を中心とする訓練によって徳化することをすすめている。
孟子は、孔子の神格化をはじめた人物である。中国大陸における聖王の歴史には、堯にはじまり、舜、禹とつづき、周の文王、武王という系譜がある。孟子はこの聖王たちに孔子を付け加えたのである。
根拠となっているのは、徳の高い聖人に天命が下り、王になるという考えだ。堯、舜、禹、周の文王、武王らは徳が高かったからこそ、天命が下り、王になった。
儒教の恐るべき統率力を目の当たりにした漢帝国初代皇帝
法家を重視した始皇帝の奏帝国だが、その厳格な法治と独裁は、中国大陸の住民の恨みを買った。始皇帝が没すると、皇帝はすぐに瓦解していく。代わって、新たな覇者となったのは、劉邦である。
劉邦は楚の項羽との争覇戦を勝ち抜き、紀元前202年、漢帝国を打ち立てた。劉邦は漢の高祖となる。
漢帝国草創にあっても、儒学者らは不遇であった。漢の高祖が、儒学者嫌いだったからだ。漢の高祖は、低い身分から這い上がり、多くの戦乱を経験し勝利した人物である。彼の配下にはならず者も多く、漢の高祖はならずものをたくみに操ったのであった。
そんな高祖にとって、礼や仁を説く儒者は間抜けであった。祭祀儀礼にあってゆっくりと動く儒者の姿は、我慢ならないものでもあった。
(中略)
世渡り上手の叔孫通は、漢帝国の家臣たちが集まる宮廷で儒教式の儀礼を採用するよう、高祖に願い出た。
叔孫通の指導による儒教式の儀礼は、漢の宮廷を一変させた。宮廷にあっても狼藉し放題であった群臣たちが、厳かな雰囲気の中、鎮まり返ったのだ。
高祖はこれに感激したという。高祖は、「皇帝になることがいかに尊いことなのか、この日、初めて知った」と口にしたと言われる。
高祖は、ならず者同然である群臣たちに手を焼いて来た。皇帝となったからには群臣たちには皇帝を崇拝してほしいと願っていたが、分針たちは高祖をならず者の頭領くらいにしか見ていなかった。
そこで儒教式の儀礼を導入したことで、群臣たちはひれ伏すようになったのだ。
引用終わり
叔孫通と似た話がある
陸賈(Lu Jia:紀元前170年没)は、中国西漢の思想家・政治家

劉邦が項羽を破って天下統一した後、陸賈は儒教の教典である『詩経』や『書経』を盛んに引用し、褒め称えた。
これに対して劉邦が、「私はすべての征服を馬の背から行う。文書や説話が何の役に立つというのだ?」と罵った。
これに対して陸賈は、「我が主君は征服を終えた後、馬の背からすべての統治を行うつもりか?」また、「呉王の夫差と晋の智伯は武に頼ったために滅んだ。反逆し天下を得て、殷と周を興した湯王・武王の例からも、文化と武力の併用が長久(永久)の道である」と説いた。さらに「もしも秦が天下を統一した後、仁義を守り古代の聖王に学んでいたら、陛下は天下をお取りになれたでしょうか?」と述べた。
劉邦は不快になったが、陸賈の正しさを認めた。劉邦は、陸賈に秦がなぜ天下の支持を失ったのか、劉邦自身はどうすれば天下の支持を得ることができるのかをまとめた書の執筆を依頼した。陸賈は国の存亡を解き明かした12篇の書を著し、1篇ができるごとに奏上した。劉邦はそのたびにほめ、これが12帖からなる『新遊説新語』である。
おわり
周の制度と文化
このサイト読みやすい。

周王の一族に領地(邑)を与えて世襲させ、各地を統治させる政策をとった。
このような世襲の支配者を諸侯といい、与えられた領地を封土という。
諸侯は、封土を授けられた見返りとして、周王に対し貢納と軍事奉仕の義務を負っており、王や諸侯のもとには、卿けい・大夫たいふ・士しなどの世襲の家臣がいて、それぞれ地位と封土を与えられ、その見返りとして、貢納と軍事奉仕の義務を負うという構造になっていた。このような統治の仕方は「封建」と呼ばれた。
これは土地を媒介する主従関係という点で、中世ヨーロッパのフューダリズムや日本の封建制と類似するようにみえるが、周の封建制は、ヨーロッパや日本のように契約や自発的意志にもとづいて結ばれる主従関係ではなく、むしろ血縁を基礎とした氏族制的な政治システムとみるべきである。
中国では、姓を同じくする父系の親族集団を宗族(そうぞく)と言い、血縁を政治支配の原理とする周では、宗族のまとまりと秩序がことに重んじられた。


宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、その嫡流(本家)を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は、大宗の強力な統制のもとで、共通の祖先祭祀などを通じて、つねに一族の団結に努めていた。このような宗族内の上下関係や秩序を定めたものが宗法であり、これにもとづく道徳的規範が礼である。周の封建制は、周王室を大宗とする宗族的秩序を根幹として成り立っていたのであリ、宗法と礼は封建制を支える支柱としての役割を担っていた。このような西周の政治体制を、殷の祭政一致に対して、礼政一致とも称する。
西周は祭りも殷に負けずやっているけどね。周は「祭礼政一致」だ。殷が祭(生贄儀式殺人)で神にお伺いをしなくなったので、クーデターを起こした。
おわり
【メモ】
礼楽刑政、その極は一なり
《「礼記」楽記から》
礼節も音楽も刑罰も政治も、その目的とするところは秩序ある社会を作るという一つの事柄である。
礼楽
礼節と音楽。社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽。中国で、古くから儒家によって尊重された。転じて、文化。
日本の礼儀作法=土下座文化、服従精神は周がルーツ。
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