最高傑作『火の鳥 鳳凰編』はなぜ“最悪のスランプ期”に生まれたのか?ラストに込めた、狂気じみた執念の正体
今回は「火の鳥」の最高傑作と名高い「鳳凰編」を深堀りします
その前に前回記事をご覧ください。
「火の鳥」これまでの歩み
まずはこれまでの「火の鳥」の歩みを、ざっと振り返ってみましょう。
「黎明編」で日本神話、古代の日本を描いた次作
「未来編」では一転して超時空SFの世界へ
生命の意味に迫る、覚醒の一撃を炸裂させます。
ところが次に登場した「ヤマト編」は、まさかのギャグ展開!
これはシリアスな時代ものが苦手な手塚先生らしい逆張りのアプローチで
またも振り幅の大きい作風にファンのド肝を抜きます。
…というか混乱させます。
しかし続く「宇宙編」ではお得意のSFが炸裂
さらにミステリー要素を織り交ぜ「火の鳥」の全体像も見え
それぞれのエピソードが地味に絡んでくる世界観をも展開
これにより「火の鳥」の世界観がより立体的に捉えることができる
奥行のある物語を世に送り出すことになります。
この「宇宙編」ではコマ割りも特筆すべきポイントで
宇宙空間という密室のミステリーを複雑なコマ割りで見事に表現するという実験的な描写が施されています。
こんなぐちゃぐちゃなコマ割りをすると
普通は読みにくくなるものですが
まるでそれが当たり前かのように成立させる技術は一見の価値アリ。
まさに神業、やはり手塚治虫は天才的SF作家と共にマンガの神様だと再認識させられる描写です。

さらに時間軸が歪むことを利用した展開も見事で
単なる二次元の表現ではなく「マンガ」という新たな表現手段の可能性への探求が見て取れる会心の一作にもなりました。
このような実験的かつチャレンジングな手法も
「火の鳥」では積極的に取り入れられていくのですが
並の作家であれば怖くてそんなことできません。
…でもやっちゃう手塚治虫の戦闘能力の高さ、
決して保守的に走らず積極的に攻撃に出る姿勢こそが手塚治虫たる所以、「マンガの神様」と呼ばれる最大の特徴と言えるでしょう。
そして「宇宙編」の次作は歴史モノになるので一旦、中だるみになるかなと思われた矢先に飛び出してきたのが
今回取り上げる大傑作「鳳凰編」の登場!
これはマジでビビリます。
「鳳凰編」爆誕
このタイミングで手塚治虫のカタログの中でも
最高傑作との呼び声高い作品が発表された奇跡。
どうしてこの大傑作がこの時点で描けたのか…
1969年ですから決して絶好調ではありません。
むしろ「冬の時代」と語られる最悪の状況です。
漫画界では劇画ブームが猛威を振るい、これまでの手塚マンガのスタイルは古いとされ、人気も勢いも陰りを見せていた時代。
そんな中で生まれた『鳳凰編』。
まるで何かが乗り移ったかのような圧倒的な表現の爆発。
あれは、一体なんだったのか?
冒頭から長々と語りましたがやっとここから、
「鳳凰編」誕生の背景を辿りながら、
最高傑作にまで至る核心に迫っていきます。
自己表現のジレンマ
「鳳凰編」には、一つの明確なテーマが貫かれています。
それは――「表現とは何か」というストレートなテーマ
自分の表現をストレートに追及する我王タイプと
名誉や権力に翻弄される茜丸タイプ
対照的な二人が描かれていますがボクは、我王も茜丸もどちらも
手塚先生自身を映し出していると思っていて
自分の目的は一体なんなんだ…
「誰のために描くのか」
「何のために創るのか」
という手塚先生自身が執筆時に抱えていた苦悩や葛藤が、物語の核に潜んでいるように思えます。
1969年当時は劇画が時代の潮流となり手塚先生がこれまで
自己表現のためにマンガを描き時代を引っ張ってきたスタイルが
通用しなくなってきた頃です。
自分の描きたいものを描くのではなく
商業的な側面も意識せざるを得ない
そんな自己表現のジレンマが「鳳凰編」には感じられます。
我王の憑りつかれたように作品にのめり込んでいく姿は
まさしく自分自身を投影した姿である一方で
茜丸のような職業的、商業的バランスを取りながら表現する事も
意識しなければいけない…。
そんな自己表現だけでは通用しなくなった時代のうねりに
手塚先生は悩み、
2人のキャラクター対比として「鳳凰編」に投影したのだと思います。

特に手塚治虫という作家は人一倍「表現したい」という衝動が強い人ですからこの時期は、イリイリしてしょうがなかったでしょうね(笑)
その衝動がそのまま作品の対立軸として「鳳凰編」の基本ベースになって
その強烈な熱量が作品のクオリティを押し上げる要素になっています。
魂を売ってでも売れたかった…?
そして二人の対立軸以外にも忘れてはならないのは
出番が少ないにも関わらず強烈なインパクトを残したブチ
茜丸につきまとう女の子で
大仏にうんこしたり破天荒なキャラクターとして描かれていますが
彼女こそ創作の女神「ミューズ」の化身そのもの。
クリエイターであれば誰しもが手に入れたいと願う「ミューズ」の存在を
対立軸の中に放り込んでくる辺りに
当時の手塚先生の葛藤が見え隠れしていますよね。

そして「ブチ」の存在は、
後の『ばるぼら』の原型になっているのも間違いないでしょう。
天真爛漫で常人には理解しがたい奔放さと創作への引力。
手に入れたいのに掴みどころのない存在はまさに「ばるぼら」と被ります。
「ばるぼら」発表は「鳳凰編」の4年後
手塚先生が最も苦しんだスランプ期の末期ですから
「鳳凰編」から地続きで創作への悩みが始まっていることが伺えます。
作中に、茜丸が
「鬼瓦をつくる目的はなんです?」
と、自らに問いかける場面があるのですがそれはあたかも手塚先生自身が抱えている葛藤をそのまま代弁させているかのようなシーンにも見えます。
スタイルを変えるべきか…
描きたいものを貫くべきか…
当時のジレンマが、
茜丸の言葉を通して浮かび上がってきたように見えます。
ラストの我王が両腕を失うシーンも非常に鮮烈、
仏師が両腕を失うということは
その表現手段を無残にも奪われるという描写です。

腕をもがれてもなお我王は口で創作活動を続けるわけですが
これも手塚先生が表現手段を奪われそうになりながらも、
何としてでも描き続ける執念ともいうべき潜在的表現の
ある種の手塚治虫の叫びのようにも見えるんですよね。
実際、当時の先生は壮絶でした。
頭が禿げるくらい悩み散らしていた中でも連載を減らそうとはせず
少年誌、青年誌、さらには大人向け雑誌にまで連載を拡大。
すべてのカテゴリで連載を持つという異常な状況に追い込んでいます。
それは、がむしゃらに描くことでこの困難に立ち向かおうとしていたようにも見えますし、仕事を奪われたくないという反動にも見えます。
意識的ではないにせよ潜在下にあった衝動が表面化したのではないでしょうか。
このように手塚先生の破滅的職業病といえる自己表現の二面性が
潜在的苦悩としてぶつかりあって混ざり合ってぐっちゃぐちゃになった
その混沌とした状況が「鳳凰編」のエネルギー源の正体ではないかと…。
これも「未来編」の時にも考察した一種の覚醒に近い状態。
苦悩が故に生まれた産物。
「鳳凰編」もまた「未来編」同様、奇跡が生んだ一遍であると思います。
傑作になり得た理由
あと「鳳凰編」が手塚先生の覚醒以外にも名作たり得た理由として
さまざまな要素が奇跡的に噛み合ったタイミングであったこと
ある種の惑星直列的なタイミングであったことも要因として挙げられます。
「黎明編」から「未来編」へのアップデート、そして画のタッチの変容
商業主義と流通のジレンマ、作家としての表現の追求
「火の鳥」というマンガの存在感、認知、など様々な要素がハイブリッドに
成立したのがちょうどこの時期にあたります。
そして、極めつけはB5判単行本という形での発刊。

これが出回ったことが非常に大きな意味を持ちます
「火の鳥」は決して瞬発力のあるマンガではないので
単体作品だけでは作品の真価に気づきにくい面があります。
むしろ構想がデカいので初回から「面白い」という作品でもありません。
真骨頂は各エピソードとの密接な関係性を持ちながら
全体像を通してようやく見えてくる“壮大な構想”にあります。
むしろ一気に読んでこそ、見えてくる「深層」。
それを楽しむマンガでもあります。
そんな読み方が、ようやく可能になったのがB5判単行本の登場なのです。
これはめちゃくちゃ大きな変化でした。
現代の我々が当たり前と思っている単行本の在り方が
そもそも昔と今では大きな違いがあります。
1968年当時では雑誌連載のマンガが必ずしも単行本、
いわゆるコミックスになるわけではない時代でした。
単行本の立ち位置は、雑誌の下位互換的な立ち位置だったので
単行本はそこまで流通していなかったんですね。
むしろ大手出版社は
雑誌掲載作品を単行本という形で再録して販売することに
「1回世に出たものを誰か買うの?」
のような認識が一般的であり出版に全然積極的ではありませんでした。
なので単行本は、その子会社や異なる版元から出版されているのが普通で
単行本を全巻揃えようと思ってもどこから出版されているかも
分からなかったりすることも普通でした。
そもそも貸本が時代の主流でもあったので
マンガは「借りて読むもの」が一般的。
買い揃える感覚はほとんどないので
現代のコミックス感覚と全く違うものだったと言えますね。
しかしここで
貸本出版社が続々と倒産していくことで時代の流れが変わります。
なぜ貸本出版社が続々と倒産したのか?
それが単行本という出版形態に適応できなかったから…。
1968年頃から急速に単行本(コミックス)が出版されるようになり
時代の流れに適応できない出版社が続々と倒産していきます。
この貸本出版社の倒産がマンガ文化のひとつの時代の転換点となり
その流れに乗るようにして「火の鳥」はB5判単行本の登場により
「火の鳥」人気を一気に加速させていくことになります。
一回だけ読んで、一話だけ読んでも大長編の妙味が味わえない。
一気に読んでこそ面白くなってくる
読み進めるうちに“じわじわ”効いてくる作品ってありますよね。
まさに「火の鳥」はそんなマンガでした。
手塚先生が描きたかった大長編の本質は
全体像が見えてくることで本領発揮する作品なので
このタイミングで一気読みできたのは非常に大きい要素だったと言えます。
というわけで以上「鳳凰編」が手塚治虫のスランプ期にありながら
日本漫画史屈指の名作にまでなり得た理由を
個人的解釈を交えてご紹介して参りました。
この余韻は自作「復活編」にも引き継がれていくんですが
「復活編」のご紹介は次回となります。
ではでは。
