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【キャラ立ち】Duolingoの例文が自然だと思える理由

 「ネイティブはそんな不自然な言い方をしない。」

 語学学習をしている方なら、一度は耳にする言葉だろう。しかし、この手の文言が前提にしている「(不)自然」とは何を意味しているのだろうか。ネイティブがよく使う表現なら自然なのか。それとも、別の基準があるのか。私が利用しているDuolingoについても、「出てくる文は不自然だ」という意見を見かける。今回は、語学における「自然な表現」とは何かについて、Duolingoを起点に考えてみたい。

1、「自然な表現」という言い方

 語学の文脈における「自然」とは、教科書に載っているような干からびた表現ではなく、ネイティブの日常会話では頻出するといったニュアンスで使われることが多い。「彼は英語の先生です」を英語で表現するとき、直訳調の He is an English teacher. ではなく、He teaches English. と動詞中心に表現する方が英語として自然だ、のように使われる。もちろん、直訳調でも意味が伝わらないわけではないし、英語として間違っているわけではない。ただ、ネイティブはあまりこうは言わない、不自然だ、という言い方をする。

 では、そのような文が自然ではないからと言って、それは無意味ということになるのか、といえばそんなことはない。特に普通の語学教材の場合、学習者向けに作るから、理解しやすいようにテキストを練るのは当然の配慮だし、別に意味も通じる。例えば、日本語の教材に「ごきげんよう」というフレーズを見つけて「今時こんなのだれも使わないよ」と日本語ネイティブとしては感じても、私たちは「ごきげんよう」が意味するところは理解できるし、然るべき状況で用いられれば不自然に感じることはないだろう。

 その表現が自然かどうかを、文脈を抜きに判断することは難しい。「ごきげんよう」も、100年前のお嬢様学校という場面なら自然に響く。その表現を「よく聞く」ことが自然さの一つの基準ではあるが、私たちが触れる言葉は状況や位相によって大きく異なる。例えば「マジか」というフレーズは友人同士なら自然でも、仕事の場面では不適切だ。一方、語学書の例文やAIが生成した文章は、誰に対しても無難に通る。しかし、誰が誰に向けて発した言葉なのかが見えにくいため、現実の発話としては輪郭がぼやけ、不自然に感じられやすい。

自然な表現と教科書的な表現の違い

2、Duolingoに出てくる外国語は自然なのか

 そこで、Duolingoに出てくる外国語が自然かどうかという話だが、これはなかなか議論の余地のある問題だ。もちろん、問題の作成にAIを活用していることは明らかだし、学習者向けである以上、教科書的で不自然な表現が混じっているという意見も分かる。しかし、だからといってDuolingoの外国語全体を不自然だと判断するのは早計だ。問題は、それぞれの表現が文脈に適合しているかどうかである。文脈を欠いた例文は、どれほど文法的に正しくても不自然に響く。「これはリンゴです」と突然言われれば、「だから何だ」と感じるのと同じである。この点に関して、Duolingoは文にリアリティを持たせるための工夫を施している。それは、このアプリの世界観を構成する個性豊かなキャラクターたちだ。Duolingoファミリーとでも言えそうな、各キャラクターの性格は立ち位置が定まっており、おきまりのキャラクターがおきまりの行動をするなかで、新たな構文や語彙を覚えていける。長くDuolingoを続けていると、登場するキャラクターの性格や立ち位置は自然と頭に入っている。無邪気なザリ、皮肉屋のリリー、ミステリアスな過去をもつルーシー……。それぞれのキャラクターには決まった役回りがあり、「この人物ならこう言いそうだ」という前提が、ユーザーの中に次第に形成されていく。 これは語学学習にとっては大きなメリットだ。

主なDuolingoファミリーのざっくりした私のイメージ


3、キャラクターが「自然さ」を作る

 Duolingoでは、純粋な語学学習としての新しい語彙や構文を覚えるセクションだけではなく、読み物やポッドキャストで読解力や聴解力を養うセクションがある。そこでは「このキャラクターはこのようなムーブをかますだろう」という前提で臨めるので、文脈が想定しやすく、出てくる文章が教科書的であったとしても、文脈をまとったキャラクターが言葉を放つことで、言葉が生き生きとしてくる。どういうことなのか、ドイツ語の具体例で詳しく説明しよう。

「蚤の市に行く」というテキストの一部

 画像のテキストでは、「蚤の市でリリーがザリにバッグを買ってあげた」という場面のあとで、ザリが Lilli! Das ist so süß von dir! と言っている。このドイツ語の表現は、人の親切や気遣いに対して「なんて親切なの」や「ご親切にどうも」と感謝を伝える定番の言い回しである。辞書だけを見れば、それ以上でもそれ以下でもない、教科書にも載っていそうな普通の例文に見える。しかし、Duolingoで描かれるザリは、人の善意を素直に喜び、それをそのまま言葉にしそうなキャラクターだ。その人物像を知っていると、このフレーズは辞書どおりの「感謝を伝える表現」という説明だけでは収まりきらない。むしろ、süßの本来の意味である「かわいい」に寄せて「ほんとにかわいいんだから」のように、リリーへの愛着まで含んだ言葉として自然に響いてくる。ここで行われているのは、辞書の意味を日本語に置き換える作業ではない。「あのザリならこの場面でどう言うだろう」と考えながらフレーズを読み解いているのである。リリーの返答 Sag das nie wieder. も同様で、直訳すれば「それを二度と言うな」だが、皮肉屋で素直になれない彼女の性格を知っていれば、「そういう言い方、やめて」と照れ隠しとして読める。このようにキャラクターというプリズムがあることで、Duolingoの例文は「教科書の例文」を超え、「誰かが誰かに向けて話した言葉」として立ち上がるのである。その外国語が自然かどうかは、「ネイティブがよく使うか」だけでは決まらない。その場面で、その人物が本当にそう話しそうだと思えるかどうかなのである。自然さを支えているのは表現そのものではなく、それが置かれた文脈なのだ。Duolingoへの評価が分かれるのも、その文脈を受け入れられるかどうかの違いなのだろう。

4、文としての存在理由がないと不自然になる

 逆に、This is a pen. みたいに第一課で習うような外国語の例文が「死んでいる」ように見えるのは、その例文の背後にある文脈が見えず、基本的な文構造を教えるための例文だということが透けて見えてしまうからである。もちろん、この文は文法的に正しい。でも何を意図しているのか、どうしてその発言をしたのかが分からず、「それがペンだからなんやねん」のようにツッコミたくなってしまう。文としての存在理由がないように見えるから、言葉が「死んでいる」と感じてしまうのだ。同じことは How are you? Fine, thank you, and you? というどこの英会話教室でも繰り広げられていそうなやりとりにも当てはまる。この文が空々しく響くのは、「英語でのあいさつの仕方」を教えるためだけにこの文章が提示されているからだ。「どのような意図で表現を使うのか」「どういう状況なら使えるのか」といったことがまったく見えてこない。このフレーズを月曜日に同僚から言われたなら「週末どうだった?」という軽い雑談になるだろうし、数年ぶりに再会した友人なら近況を尋ねているのだろうと受け取る。しかし、外国語のしくみを教えることを旨とする語学書では、そんな複雑な文脈までカバーしきれない。だから結果として、Fine, thank you, and you? という一番無難な型だけが提示される。そして、こんな骨組みだけで英語を学んでいると、How are you? と、誰にどんな状況で尋ねられようとも、バカの一つ覚えみたいに Fine, thank you, and you?というもはや暗号のような返答しか言えなくなり、「不自然だ」とか「ネイティブはそんなふうに言わない」という主張が出てくる。このような傾向を踏まえて「学校で習った英語は使えない」という過激な煽り文句がでてくるのは想像に難くない。

5、自然であるからといって正しいとは限らない

  もちろん、「外国語としての正しさ」はまた別の問題である。「その英語は不自然だ」というとき、「文法的にその英語はおかしい」と言う意味で使われる場合もある。しかし、自然か不自然か、という次元では「文法的には一応正しい」という前提で議論されることが多い。ただし、「ネイティブがよく使う」=「正しい」という認識は間違いである。「この動画見れないんだけど」と「この動画見られないんだけど」だったら、どちらが日本語として自然だろうか。おそらく前者の方がよく耳にするし、リアルだとすら感じるのではないかと思う。しかし、文法的には前者は「ら抜き言葉」であり、文法的には誤りとされているので、後者が正しい日本語とされている。前者はリアルな日本語だが、後者は正しい日本語である。日本語学習者はどちらを外国語の日本語として学ぶべきなのだろうか。これは各学習者の目的や教授者の哲学によって変わってきそうな問いだと思う。

6、まとめ

 その表現の背後にある文脈が想定できるかということが、自然であることの目安になってくるのではないか。その意味でDuolingoに出てくる問題が自然かどうかという問題も、ユーザー側がDuolingoの世界観に上手いこと溶け込めるかどうかにかかっている。もし、Duolingoに出てくる外国語が不自然だと感じるときがあるとすれば、最初からキャラクターの言動にまったく馴染めない場合か、「このキャラはこんなこと言わないだろ」のようにある種のキャラ崩壊をユーザーが感じた場合だろう。Duolingoの登場人物を生きたキャラとして認識できているうちは、各人物の放つ言葉は自然なものに感じられる。そして、これはあらゆる語学教材についても当てはまる。その文が「死んでいる」と感じてしまうのは、その背景が見えないからだ。その発言をなぜしたのか、どのような意図でそう発言したのか、という「読み」が成立しないと言葉は機能しない。それがAIによって生成されていても、翻訳されたものであっても、ここではあまり関係がない。その物語を信じられるうちは、そこで発せられる言葉も自然に響く。

 外国語の自然さとは、その言葉が、誰によって、誰に向けて、どのような状況で発せられたものなのかを、無理なく想像できることである。文法は文を成立させるが、それは雛形に過ぎず、言葉の生命とも言える意味は文脈が担う。Duolingoというアプリの価値は、キャラクターを通して言葉が生きる文脈を構築し、外国語を単なる例文ではなく、「誰かが、誰かに向けて、その状況だからこそ発した言葉」として学ばせてくれる点にあるのではないか。


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