好きになる前に、離れてしまう時代
何も持ち帰れない
最近、観たはずの映画のタイトルが出てこない。
面白くなかったわけではない。途中で止めたわけでもない。最後まで付き合ったはずなのに、翌朝にはもう、輪郭がぼんやりとしている。
残っているのは「悪くなかった」というほのかな感触だけで、それも問われれば指の間からこぼれていく。
音楽も似たようなものだ。Spotifyで流れてきた曲に、一瞬だけ心が引っかかる。「いいな」と思う。でも、その思いは次の曲が来るまでの話で、気づけば何を聴いたかも定かではない。
たくさんのものに触れているのに、何も持ち帰れていない。そんな感覚が、静かに積み上がってきた。
TSUTAYAの棚の前で
ふと、TSUTAYAの棚の前に立っていた夜を思う。
一本を選ぶためだけに、店内をぐるぐると歩いた。
あらすじを読み、ジャケットを眺め、
「これで外したら悔しい」と何度も棚に戻す。
いま思えば非効率のきわみで、生産性という言葉とは縁遠い時間だった。
それなのに、不思議と記憶の中に残っている。
返却期限も、今となっては愛おしいくらいだ。
「明日までに返さなければ」という小さなプレッシャーが、観るという行為に適度な緊張を与えていた。
延滞料金を恐れながら、でも観終われなくて、葛藤しながらも最後まで付き合った夜があった。
あの強制力が、いつのまにか深夜まで画面に向かわせていた。
CDショップの試聴機も忘れがたい。
限られた小遣いで一枚を選ぶあの緊張感。ヘッドフォンを耳にあてながら「これに賭けてみるか」と決意して、レジへ持っていくときの、あの小さな覚悟のようなもの。
あの頃の体験は、たしかに重かった。
手にするまでのプロセスが長かったぶん、手に入れたものとは長く付き合った。
借りた映画は最後まで観たし、CDは聴き込むうちに少しずつ好きになっていった。
最初はピンとこなくても、何度も繰り返すうちに耳が馴染んでいく、あの時間があった。

自由さの中に、仕込まれているもの
今は、ずいぶん軽い。
スマホを開けば、観たいものも聴きたいものも、ほとんど際限なく現れる。少しでも「違う」と感じれば、すぐに別のものへ移れる。待つ必要も、迷う必要も、かつてほどはない。
それは明らかに便利で、これまで届かなかった作品に出会える自由は、本物の豊かさだと思う。
ただ、その自由さの構造の中に、静かに仕込まれているものがある。
「いつでも他がある」という前提の中では、わずかな引っかかりが離脱の十分な理由になる。
できてしまうから、離れてしまう。
選択肢の豊富さが、一つのものに留まる動機を、音もなく削っていく。
好きになる前に、離れている
もしかすると、私たちは好きになる前に離れている。
かつては「これしかない」という制約の中で、何度も向き合ううちに距離が縮まった。
今は「他がある」という前提の中で、関係が浅いまま次へと移っていく。
その結果として生まれるのが、大量に触れているのに何も堆積しない、という少し奇妙な状態だ。
体験の量は増えた。でも、体験の手触りは薄くなった。
わざと不自由にする、という選択
だから最近は、少しだけ使い方を変えている。
「今週はこれだけを観る」と決めてみる。
同じプレイリストを、あえて繰り返し流す。選べる状態の中で、意図的に選択肢を絞る。
少し不自由にすると、不思議と一つひとつの輪郭が戻ってくる。
簡単に手に入るものほど、簡単に通り過ぎていく。
だからこそ、立ち止まる理由を、自分でつくる必要がある。
便利さの恩恵を享受しながら、自分の中に小さな「制約」を設ける。
そんな意識的な不自由が、いまの時代には一つの作法になりつつあるのかもしれない。
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