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茨城百景とは結局何なのか?

茨城百景は70年以上前の百景という事もあり、ちゃんと巡る上で下調べが必須なのですが、どうやら茨城百景自体の詳しい文脈、選定された経緯を理解しないとイマイチ意味が分からない景が多々ある事がわかってきました。そこで茨城百景というモノ自体をしっかりと調べ直したのですが、その副産物がこの記事となります。

さて、茨城県のどこかで茨城百景の石碑を見つけてなんだこれ?となってネット検索する人がいたとします。
''茨城百景とは''という情報で一番上に出てくるのはまずWikipediaです。しかし肝心の情報はこれのみ。

まー何となく昔の茨城県の観光名所百選みたいなもんか・・・というのは分かりますが情報量があまりにも少ない。ざっくりしすぎていて文脈が不明で選定した目的とか趣旨とかはなんなんだとなります。
まぁそもそも74年前のモノかつローカルなモノですから文脈が不明瞭なのも当然です。

そして先ほどのWikiからもう少しネット情報を深堀していくと稲敷市のHPに詳しく書かれたページがあります。

茨城百景とは、茨城県大百科事典(1981)によると本県の名勝・史跡の中から新しい観光名所として100か所を選定し、茨城県が指定した名所とあります。選定にあたっては県と茨城新聞社が主催し、郡市観光協議会より推薦のあった百景候補地180か所を対象に「いはらき」新聞紙上に発表し、県民より投票を求めて決定する方式をとりました。

茨城百景と茨城百選 | 稲敷市公式ホームページ

ちなみにこの茨城県大百科事典の発行元はその主催の茨城新聞社です。そしてこの間入手したばかりの茨城百景の資料茨城百景巡歴の著者、室伏勇氏も同新聞社の記者でした。なので茨城百景巡歴にはこの百景の成り立ちや趣旨、選定方法がもう少し詳し目に書いてあります。

茨城百景巡歴 著:室伏勇 より

端的に言えば戦争が終わったので観光促進、宣伝のために地元新聞の紙面での投票イベントを通じて茨城の観光地百選を選ぼうという企画。
稲敷市のHPの説明では端折られてますが茨城百景巡歴によると投票の後に県が人員を派遣して現地調査をしてその後審議会にて議論して最終的に決定というプロセスもあったようです。
つまり

選定の順序は各自治体の協力を得て候補地(計180ヶ所)を県観光審議会に推薦

同新聞の紙面にて告知、人気投票(観光茨城百景県民人気投票)

県が実際に実地調査でデータ集め

それらの情報を元に茨城県観光審議会による審議にて最終的に選定

という感じ。

で平和建設云々のために観光促進する必要があるから百景選定したんだワ・・・だけで趣旨の説明が終わっていて説明不足感が否めませんがちゃんと調べ物をして茨城百景巡歴でも説明されていない文脈を考察してみました。
まずは時系列順に順を追って説明していきます。

まず時は遡り戦前の1935年に茨城四十五景というものが選定されています。これは茨城新聞社の創刊45周年の記念事業のひとつとして行なわれたものです。
これもまた同じく投票を通して選定するイベントだった模様。

昭和10年、創刊四十五周年を迎えた本社は、これを記念し、積極的な紙面改革と事業を展開する。
紙面改革は「県特産品市況報道」「読者への紙面解放」「相談欄新設」「家庭欄などの拡充」―の四本柱。記念事業は「茨城四十五景」の県民投票。
「茨城四十五景」の県民投票は、県内の景勝地を発掘、広く県内外に紹介しようという観光企画。県内では初めての県民公募の景勝地選定事業となった。
東京は官製はがきか本誌刷込みの投票用紙で、社告を掲げた7月21日の翌日から投票用紙が、本社、支局に届けられた。この投票用紙獲得をめぐって、広告を出して寄贈を訴える熱狂的な候補地まで登場。連日、誌面で獲得結果が掲載され、県民のボルテージは上がる一方だった。
募集締め切りの8月31日までに寄せられた投票数は2,360,014票。本社発行の投票用紙にして高さ238.4メートル。はがきに換算して715メートルに匹敵し、県民の関心の高さを裏付けた。
候補地は154か所と広範囲なものになったが、トップは東茨城郡常北町の小松寺で167,014票を獲得。二位は行方郡玉造町の桃浦、三位は笠間市の佐白山だった。45位は久慈郡里美村の天竜院渓谷。51位だった日立市の相田海岸が、取扱上の誤りで5000標ほど本社に届いていないことが判明し、準45位に認められるといったおまけもついた。
「茨城四十五景」が決定すると、本社は四十五景の観光写真も県民に募集。その結果、第一部・引伸の部に水戸市、戸島寛氏の「相田海岸」、第二部・密着の部に中里村(現日立市)、関右馬允氏の「花園山の瀧」がそれぞれ一等に入賞した。
また、四十五景入選地には茨城工芸会会員で、東京日本橋三越本店前のライオン象で名高い磯崎美亜氏製作のレリーフを贈呈。各景勝地でも、記念碑や案内標示を建てて、観光開発に役立てる動きが見られた。

『茨城新聞百年史』(1992年) より

最初この四十五景は単純に昔から数ある〇〇景の一種なのかなと思っていました。が、どーやら四十五景より少し前に選定方法や主催者が非常に似通った日本八景、日本二十五勝、日本百景というモノがあり、これが元ネタかと思われます。
というのもこれらは大阪毎日新聞社と東京日日新聞社(現在の毎日新聞)が主催、鉄道省が後援し、投票イベントを通じて1927年に選定したもの。
ちなみに日本百景では筑波山と霞ヶ浦が選定されています。

当時これらは日本全国に結構な反響を呼んだらしく茨城新聞社もその宣伝効果を見てせっかくだしウチも記念事業として45周年にかこつけて四十五景にして地元版をやるかーみたいなノリだったのでは?
元ネタの日本八景は選考に漏れた景で日本二十五勝や日本百景を作ったようなので同じく大盛況だった四十五景も選考に漏れた分を追加して新たな〇〇選や〇〇景を作りたいと思うのは自然。恐らく戦前の時点で茨城百景を作ろうという考えはあったのかと思います。

がしかし

茨城四十五景の選定の2年後1937年に日中戦争が始まり日本は戦時体制に入ります。当時の情勢としては

1937年(昭和12年)7月以後、日本は中華民国と戦闘中であった。第一次近衛文麿内閣は同年8月24日に「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定して国民の戦時意識高揚を図った。
同要綱では、実践事項として「日本精神の昂揚」「社会風潮の一新」「非常時財政・経済政策への協力」「資源の愛護」などが盛り込まれ、具体的には消費節約や貯蓄の奨励、日の丸弁当持参などが地方行政官庁から呼びかけられた。
しかし一方で、日本国内では国民生活への影響はまだ少なかった。

1939年(昭和14年)2月、平沼騏一郎内閣は国民精神総動員を「官民一体ノ挙国実践運動」として展開することとした。3月28日には国民精神総動員委員会が設置され、荒木貞夫文部大臣が委員長に就任した。6月16日、国民精神総動員委員会は生活刷新案を決定し、歓楽を慎み節約に励むことが国民に通告された。

ぜいたくは敵だ - Wikipedia

当時は資源不足の統制下において軍事輸送を最優先する観点から、「ぜいたくは敵だ」「遊楽旅行廃止」「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といったスローガンが駅に張られるなど、観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけていたが、皇室と縁の深い明治神宮、橿原神宮、伊勢神宮などへの参拝は例外とされ、むしろ割引乗車券を販売するなど参拝を推奨していた。
国民は長く旅行を遠慮していたこともあって、大手を振ってこれらの神社へ出かけ、1940年(昭和15年)の橿原神宮参拝者は延べ1000万人、伊勢神宮は同800万人を数えた。
また、伊勢神宮と橿原神宮が沿線に鎮座する大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急行電鉄(大軌・参急・関急電、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身)や大阪鉄道(大鉄、現在の近鉄南大阪線など)・奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)といった私鉄会社は、この輸送に対処すべく臨時列車を多く設定し、国鉄も同様に旅客輸送に努めた。

紀元二千六百年記念行事 - Wikipedia

という感じで1939年から終戦までは祝賀ムードがあった1940年を除いて旅行するのが憚れる世情になってしまいます。まぁ現代でも間近でコロナ禍があったので感覚は理解しやすいですね(オリンピックでコロナ自粛の建前がなぁなぁになったのも似てる)
しかしこれは完全にタイミングが悪いです。日本百景が話題をさらっていた時期は戦前日本の平和な安定期だった大正が終わり昭和に入ったばかりの頃かつ世界恐慌の直前あたりです。(というか第一次世界大戦後から世界恐慌までの期間も教科書的には不景気だったという事になってますがナントカ百景をやったり意外と呑気なもんで少し驚いた)

ではなぜその戦争直前のタイミングで日本八景や茨城四十五景が選定されたんでしょうか?それはこの暗黒時代である昭和前期になる前の大正時代の世情が背景にあります。
大正期というのは日露戦争が終わり平和な時代になり第一次世界大戦の特需で格差の拡大はありつつも好景気に沸き文化が豊かだった時期です。鉄道網も普及し旅行しやすい時期だったわけです。
そういった時代の末期に選定されたのが日本八景や茨城四十五景という訳です。
まぁ茨城四十五景選定は最早暗黒期直前の時期どころか選定の3年前には五・一五事件が起きてますし暗黒期に片足突っ込んだ時期にやってます(笑) この茨城県民の流行に乗るのが遅い感じはこの頃から(ry
しかし意外と日中戦争に突入するまではこういったイベントをやる余裕があったようです。これは歴史の教科書からは分からなかった空気感ですね。

そして終戦後の1948年に『平和茨城建設計画』という物が出てきます。
資料『日立市 十王町史』によるとこの計画は戦争で傷ついた茨城県の復興計画でそれに茨城新聞社が賛同しその一環として「観光茨城百景」構想が立案された・・・との事。
1949年12月15日に準備会が開かれ、翌年3月末までに選定するというかなりハイペースな計画だったらしい。最終的には少し伸び1950年の4月21日に決定された百景一覧が紙面に掲載されたもののそれでもかなり早く、やはり四十五景という前例があったからこそ戦後の混乱期にも関わらずハイペースでこういったイベントを実行できたのかな~と思います。
ちなみにこの計画には記録映画があるんですがそこにはなんと資料『茨城百景めぐり』を生み出した日立多賀工場が登場。

ここまで来ると平和建設云々で観光促進をし始めた理由が見えてきて、
四十五景選定直後にすぐ情勢悪化&戦時体制入りで観光促進イベントが台無し、当然景を増やした続編もとん挫→戦後の復興事業に戦前の平和な時期に行っていた観光促進イベントの続編が趣旨としても合うしよし来たとばかりに百景を企画として持ち込んだ・・・という流れかと思われます。
茨城百景巡歴のレビュー記事で候補地に推薦すらされていない景が選定されていると書いてますがその某景は四十五景には入っているので疑問が一つ解けた気がします。
しかしまぁなんかコロナ禍からのコロナ明けで旅行ブームになった現代と似てますね。

ともかく↑のような事情と終戦から5年しかたってないという事も相まって茨城百景は日中戦争までの世界観でオススメ観光地百選を選定しているという向きが強いです。
終戦直後の観光百選どころか戦前の観光百選である。これが茨城百景です。

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