深いコーヒーの香りが静かに漂うレイアス家のリビング。
ついさっきまで、そこには穏やかな時間が流れていた。
少し私たちから離れて座り、ミリアを心配そうにしているティリア。
ミリアの胸のざわつきだけが、
その静けさに小さな波紋を落としていた──
その静寂を打ち破る様に、空気がひやりと沈む。
誰かが入ってきた気配はない。
扉も、風も、音すら動いていない。
なのに──
老紳士は、そこにいることが当然かの様に静かに立っていた。
◆ 1. 静けさを裂く“訪問者”
レイアス家のリビングは、
ついさっきまで穏やかな空気に包まれていた。
ティナさんが丁寧に淹れてくれたコーヒーの深い香りがふわりと漂う中、
ミリアはソファの端で膝を抱えながら、
胸のざわつきを気にして落ち着かない様子だった。
私はその様子を見守りつつ、
ルミエラさんとネリアお姉様と一緒に、シギルさんの説明を聞いていた。
──その時だった。
空気が、ひやりと沈む。
誰も入ってきた気配はなかった。
扉の音も、足音も、風すら動いていない。
なのに──
気づいた時には、
老紳士がリビングの中央に立っていた。
その老紳士の所作は、綺麗なのに違和感を感じる。
「ご挨拶が遅れました。
私はアストルと申します」
その声は静かで、深く、底が見えない。
まるで、そこに存在していないかのような不思議な声。
「本日は──
ある方のご命により、
ニカ様をお迎えに参りました」
私の胸元の光粒が、その言葉に"どくん"、と強く脈打つ。
ティナさんが心配そうに、私の腕を掴む。
「ニカちゃん……この人……」
ルミエラさんとネリアお姉様は
すでに構えを取っていた。
シギルさんは、
気づけばアストルの背後に立っていた。
シギルさんが抜いた短刀の刃が、老紳士の首筋をしっかりと捉えている。
「……何者だ」
低く押し殺した声。だけど、大事な者たちを守るどこか優しくも強い気配。
だが、首筋に短刀の刃が当たっている当のアストルは微動だにしない。
「ご安心を。
私はただ、主様の理に従っているだけでございます」
その余裕。その静けさ。どこか人ではないと感じさせる異質な空気。
その瞬間──
ミリアの胸のざわつきが、糸を切れるように、ぷつん、と弾けた。
◆ 2. ミリアの影がざわめく
ざわ……ざわざわ……
ざわざわざわざわざわッ!!
ミリアの影が、部屋中を生き物のように揺れ始める。
「えっ……えっ……?
ちょ、ちょっと……やだ……やだやだやだ……!」
ミリアの声が裏返り、その目は大きく見開かれ、涙が驚きと不安で滲む。
「な、なんか……出てる……!
影が……勝手に……やだぁ……っ!」
ミリアは完全にパニック状態だ。ティナさんに寄り添い、服の裾をぎゅうっと掴んだ。
「お母さん……っ!
やだよ……止まらないの……!
胸が……ざわざわして……何なの……これ……怖い……!」
ティナさんは驚きながらも、迷いなくミリアを抱き寄せる。
その腕は、大事な娘を“守る”と決めた母の腕。
「大丈夫よ、ミリア。
お母さんがいるから。
怖くないわ……大丈夫、大丈夫よ……」
ティナさんの優しい声は、影のざわつきが支配する不自然な空間の中で
唯一の“人の温度”だった。
ミリアはティナさんの胸元に顔を埋め、
震えながら必死に息を整えようとしている。
「ひっ……ひぐっ……
やだ……やだよぉ……」
ティナさんはミリアの背中を、ゆっくり、ゆっくり落ち着かせる様に撫で続ける。
「大丈夫……大丈夫よミリア。
お母さんがいるからね……
あなたは……あなたは、一人じゃないわ……」
そんな二人を一瞥し、興味がないようにアストルが静かに言う。
「……場所を移しましょう。
このままでは、この家が保ちません」
それを聞いて、シギルも納得したのか、首筋に当てていた短刀を懐にしまう。
「わかった。
奥に広い部屋がある……そこに移ろう」
その間もミリアの増殖は止まらなかった。
◆ 3. 不可思議な空間
シギルに案内され、私たちは、リビングから奥の部屋へ移動した。
部屋に入った瞬間──
ミリアの影のざわつきが、堰を切った様に爆発した。
ぽこっ、ぽこぽこっ、ぽこぽこぽこぽこっ!!
ミリアの影が、
まるで“増える理由”を求めるように
床を這い、壁を這い、空間を支配しつつ、一点へと集まっていく。
何もないはずの壁の表面に、細い光の線が走った。
ひとすじ。
またひとすじ。
光の線はゆっくりと繋がり、まるで“継ぎ目”をなぞるように
何かの輪郭を描いていく。
増え続けるミリアの中、ティナさんに抱きついたままのミリアが、
「……扉……なの……?」
震える声で呟く。
無数の光の線が最後の一点で繋がった瞬間──
ぱん、と乾いた音を立てて、空気が弾けた。
何もなかったはずの壁は、ゆっくりと“扉”へと姿を変えた。
アストルはその前へ、当然の様にゆっくりと歩み寄る。
「こちらは“理層の継ぎ目”。
主様の規則に従い、
選ばれた者だけが通ることを許される扉でございます」
私の胸元の光粒が、その言葉にふるりと震え、胸元から淡い光が扉へ伸びる。
◆ 4. ミリアの決意
ティナさんが不安げに私を見る。
「ニカちゃん……無理は、しちゃだめよ……?」
ミリアはティナさんのそばで震えていた──
けれど。
その小さな肩が、ふるりと震えたあと、それまでの震えを押さえて、
ゆっくりとティナさんの腕の中から抜け出した。
「……アタシも……行く」
「えっ?……ミリア?」
ミリアの決心した声に、ティナさんが驚いた声を漏らす。
ミリアはまだ涙の跡が残る腫れた目で、でもしっかりと前を見据えていた。
「アタシ……アタシが増えた理由を知りたい……
怖いけど……でも……アタシ自身のことだから……アタシも……うぅん……アタシが行かなきゃ!」
私の胸元の光粒がふるりと震え、扉がミリアを“受け入れる”ように淡く光る。
アストルが静かに頷く。
「……どうやら、あなたも選ばれたようですね」
ルミエラさんがミリアの隣に立つ。
「ミリアさん……一緒に行きましょう。
あなたを一人にはしません」
ネリアお姉様も静かに続く。
「ええ。
あなたはもう、一人ではありません」
シギルさんは短刀を収め、
静かにその場に立つ。
ミリアの決意を受け止め、その決意を後押しするかの様に……
◆ 5. 扉が開く
アストルが扉の前に立った瞬間──
それまでの静謐さが、凛とした背筋が、まるで今までのことが虚像だったかの様に“弾けた”。
肩が小刻みに震え、口元は不自然に吊り上がり、青い瞳の奥に狂気じみた光が宿る。
「……あぁ……っ……
ついに……ついにこの時が……!」
その声は震えていた。
感情を抑えているのではない。
抑えきれない感情を爆発させる。
「ニカ様……
このアストル……
この瞬間を……
どれほど……どれほど待ち望んでいたことか……!」
胸に手を当て、息を荒げ、まるで歓喜に打ち震えるように続ける。
「主様の……主様の理が……
ついに……ついに動くのです……!
あぁ……なんという栄誉……
なんという悦び……!」
いつも冷静に状況を観察していて、
動じることがないルミエラさんとネリアお姉様が思わず一歩引くほどの熱量。
ティナさんはミリアをそっと抱き寄せ、
シギルさんは無言で短刀に手を添える。
アストルはそんな全員の視線を一切気にせず、ただ扉を見つめ、震える声で歓喜を叫ぶ。
「──さあッ!!
“主様の扉”は、ニカ様を迎え入れるッ!!
どうか……どうかこの先を……
心行くまでご覧くださいませぇぇぇ……!!」
その瞬間、その言葉を待っていたかの様に、扉の継ぎ目が光を爆ぜて開く。
私、ルミエラさん、ネリアお姉様、そしてミリア──
四人の影が開け放たれた扉へ。扉の光の中へと静かに伸びていく。
そして──
光は収束し、眩い光を放っていた扉は静かに閉じた。
深層と外界を繋ぐ継ぎ目は、再び静かに姿を隠した……
シギルさん、ティナさん、ティリアさんの三人を残して……
扉が閉じ、光が収束したあとも、
レイアス家に残った三人は、しばらく誰も言葉を発せなかった。
深層と外界を繋ぐ“継ぎ目”は、
まるで最初から存在しなかったかのように静かだ。
ただひとつ確かなのは──
あの扉の向こうで、理が動き始めたということ。
次回、第12話。
アストルが叫んだ“主様の扉”の先で、ニカたちを待つものとは──。
--第12話へつづく
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