寿司マン 第3話 (創作大賞2026エンタメ原作部門)
ミチルアミノ酸
一般的には知られてはいないが、それは飲食に本格的に携わる者にとっては、一度は聞いたことのある旨味成分であった。
ただ、その成分の含有元については、南フランスの限られた地方のトリュフの中の1万個に一つにごく微量に含まれているとか、長野県上田市の塩田平地区の中で限られた場所に数年に一度生える松茸にごく微量に含まれているとか、都市伝説的に話を聞いたことはあるが、実際に手に入れたことがあるという人間に会ったことはなかった。
まさか伝説ともいうべきミチルアミノ酸が自分の手から出ていたとは…
食品衛生研究所によると、守秘義務により具体名は教えることはできないが、国内でも僕と同じ症例が数例あり、それらはやはり高名な寿司屋だったり、日本最高峰と呼ばれている手打ち蕎麦の店の主人だったりで、自分の手に疑問を感じて検査を依頼してきたという。
ただ、僕のように目に見えるくらい手からミチルアミノ酸が滴っている状態は研究所もはじめてだということだった。
僕の手から滴っていたのは手汗ではなく旨味成分だった。
ミチルアミノ酸はそれ自体はほとんど塩分を含まず、調味料的な役割を果たすというよりもそれぞれの食材における旨味成分をいわばドーピング的に増幅させる役割を果たすので、食材との相性を選ばないとの事だった。
はじめてお客さんにカンピョウ巻をだしたあの日は、手ぬぐいで拭いて誤魔化していたが、極度の緊張もあり今までの人生で一番、手のひらがびちゃびちゃだった。
拭いても拭いても溢れでる伝説の旨味成分がふんだんについていたカンピョウ巻だったので、カウンターの常連達が笑顔で白目を剥きながら《カンピョウ…カンピョウ…カンピョウ…》と、うわ言のようにくり返していたのも当然のことであった。
現代の衛生観念では、人間の手から出ている旨味成分は世間に知られたら受け入れられないと思うが、人間由来の成分なので食しても全く問題がないとのことであった。
昔から日本では、母の手作りのおにぎりが美味しいとされてきたが、研究所によるとそれはごく一部の母親の手に含まれていたミチルアミノ酸が起因しているのではないかという事であった。
植物由来とか動物由来とかは聞いたことあるが、人間由来という言葉を聞いたのははじめてだった。
それを聞いた僕は、なんだかとても誇らしい気持ちになった。
今までは手が濡れている事で壮絶なイジメを受けたり、職場で衛生面が問題視されてクビにならないようにと誰にもバレないよう隠してきた。
コンプレックスの象徴である手が濡れているという状態が単なる手汗をかいているのではなく、伝説の旨味成分が滴っていたのだとは…
生きていていいよ。
生まれてはじめてそう言ってもらえた気がした。
僕はある意味で本当に寿司マンだったのだ。
自分の手から出ているのが、手汗ではなくミチルアミノ酸であると知ってからの僕は、それまでの自分とは全くの別人のような考えを抱くようになった。
これまでの僕は寿司職人としての技術を磨くのもあくまで同級生への復讐を前提にしていたものであり、誰かに美味しいと言ってもらうためではなかった。
なんとかしてあのときの同級生全員を集めて僕の寿司を喰らわせて美味しいと言わせた後、寿司マンの絵を出して
「お前らが喰って美味いといったのは、あのときの寿司マンの手汗で握った寿司だ‼おかげさまで、寿司を握るのに便利な人生だったよ‼ざまあみやがれ」
と言って、その場でクビをつって死ぬという復讐をするために興信所を雇い、定期的にあのときの同級生、特に僕を寿司マンと言い放ち、公園で水をかけた山中の動向を調べながら決行の方法を考えていた。
ずっと僕を苦しめていた、この忌まわしいコンプレックスの象徴の手から滴っている液体は手汗ではなく、最高の料理人の中でも選ばれた者しか持ち得ない奇跡のスパイスだったのだ。
あの最初に僕の巻いたカンピョウを皆が奪いあうように注文してくれた喜び、笑顔で白目を剥きながら
「カンピョウ、カンピョウ、カンピョウ」
と言ってくれた常連の顔…
僕は復讐などに想いを馳せるのではなく、選ばれしミチルアミネーターとして、それに見合う最高峰の寿司職人の技術を研鑽するべきではないのか?
名前も顔も変えてしまったけど…
その日を境に僕は復讐のことは忘れ、最高の味を追求する事に心血を注ぐ日々を過ごした。
人生とは不思議なもので仕事に前向きに取り組みはじめると、私生活も前向きに進みはじめた。
それまでの僕は復讐の事しか頭になく、異性と交際したことがないどころか、接客以外ではほとんどまともに口を聞いたことがなかったのだが、出会いは突然訪れた。
一流の寿司店では、いわゆる大企業等のパーティーなどに職人を派遣して寿司を握るサービスも稀に請け負っていて、僕も派遣されることがあった。
その日は、ある一部上場企業の創立100周年の立食パーティーに僕の店も呼ばれて寿司をにぎっていた。
いつものように忙しく寿司をにぎっていると、そこにいたイベントコンパニオンの女性の内の1人にどうしようもなく目を奪われた。
特別美しいわけではない。
だけど、彼女の全身から放つオーラというか、雰囲気というか、そういったものが、どうしようもなく僕を惹きつけた。
これが一目惚れというものだろうか?
今までの僕であったら、そんな事があったとしても、ただ見惚れていただけで終わっていただろう。
しかし、復讐を忘れ、人生の駒を前向きに進め始めたからであろうか?
後から考えると自分でも信じられない行動にでた。
いや、どうしてもそうせざるを得ない何かに突き動かされた感覚で僕は行動した。
パーティーが終盤にさしかかって、寿司の注文がほとんどこなくなったときに、にぎりを他の職人にまかせて、僕は彼女に
「お疲れ様です。今日はとても忙しかったですよね よろしければ今度ご馳走するのでお店に食べにきてください」
と声をかけた。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、職業柄こういう風に言われるのはよくあるのだろう。
ニッコリと笑って
「あリがとうございます。今度いかせてもらいますね」
と言ってその場を離れようとしたので、僕は
「社交辞令じゃないんです。僕はあなたに食べてもらいたいんです」
と言った。
仕事中だった彼女は、僕の勢いにこの場は了承して丸くおさめるべきだと思ったのだろう。
もう一度ニッコリと微笑んで
「じゃあ、お言葉に甘えて本当にご馳走になりにいっちゃいますからね。私、たくさん食べますから覚悟しておいてください」
と言って、連絡先の記載された名刺を僕に渡して仕事に戻っていった。

つづく
第4話
