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小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(2)

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第1章の2


 2019年度、玲子さんは大阪出張所に転勤となった。「ヤワタビニル」はポリエチレンの緩衝材に特化した会社だ。例えばリャービの高級ドリルのケースを開けると製品の形に穴の空いたふにゃふにゃしたマットが入っているだろう。あれを作っているのだ。最近、関西の大手精密機械メーカーとの契約が成立し、大幅な増員が必要となったらしく、係長と玲子さんが大阪行きとなった。係長が「玲子さんと一緒じゃなきゃ行かない!」とゴネたという話と、大口の顧客との関係が安定するまで玲子さんを投入して相手を骨抜きにするという会社の戦略だという話がそれぞれ実しやかに囁かれたが、そのどちらも正解だろう。いずれにしても会社の成長やら戦略やらに興味のない僕は、単純に玲子さんの笑顔が見れなくなるのが悲しい。
 3月末、営業と事務職合同で係長と玲子さんの送別会が行われた。全体の送別会が無事終了し、若者だけで二次会兼玲子さんの送別会に移動した会場は小さなポルトガル料理屋。この手の準備にそつがない徹也が貸切にしてくれた会場だ。3500円の会費にしては料理も良く、たいそう心地よい。

 しかしその雰囲気を一変させる事件が勃発した。導火線に火をつけたのは間違いなく徹也だ。二次会もそろそろ佳境に入り、そろそろ誰かが締めの言葉を言い出すのではないかというタイミングで、いきなり「宮本様にお届けものでーす。」と配達員がやってきた。赤いバラの花束と小さな包みを受け取った玲子さんに、「早く開けてよ。」と催促する徹也。状況を飲み込めない玲子さんが包みを開くと、そこには(たぶんダイヤの)指輪が入っていた。
「これ、どういうことですかぁ?」と玲子さん。
「つまり、そういうことよ。」と徹也。ぶわぁと華やぐ一同の中で呆然とする玲子さん。ああ、この日がついに来たかという気分だ。
「つまり、これってプロポーズってことですか?」
「はいそのとーりです玲子さん、よろしくお願いしまーす! 必ず幸せにして見せますっ!」
うわっ、聞いてるこっちが恥ずかしくなる。こいつは自信以外の感覚を持ち合わせてはいないのだろうと彼の将来に不安を感じる一方で、やっぱり徹也はすごいやと賞賛する。
 一方の玲子さんは、うつむいて目をつぶって歯を食いしばっている。震える背中と高ぶる感情を必死でこらえているのだろう。涙がポタポタを落ちてきた。「うっ、うっ、」と嗚咽が微かに漏れる。僕はその後の展開を瞬時に想像し、その場の空気に逆らわぬよう、できるだけ笑顔を作って囃し立ててやろうと決めた。
「良かったねー。おめでとう玲子。」という女子たちの言葉を遮るように、玲子さんの感情が爆発した。
「ぶわぁっはっはっは・・」玲子さんは少し壊れたのかもしれない。ぶぁははひーひーとお腹を抱え、美しい顔を涙と鼻水ででろでろにしながら痙攣している。ここは潮が引くのを待つしかなさそうだ。
 数十秒か、あるいは数分だっただろうか。ようやく正気を取り戻した玲子さんは徹也に言放った。
「申請を却下します。」
「玲子さん、状況理解してる? 僕が申し込んでるんだよ。本郷徹也だよ。怪獣オタクの坂下明弘じゃないよ。僕だよ。」
「徹也くん、あなたが100人集まっても明弘くんの敵じゃないわ。だいたいねえ。いったい何をどう勘違いしたらこういう展開になるわけ?これまであんたと将来を語り合った記憶、私にはこれっぽっちもないっ。バラだの指輪だのっていうサプライズ攻撃など効かぬわぁ。」
「本気ですか?」
「片腹痛いわぁ。あんたは金もあるしまあまあいい男だし、性格もいいし、仕事もできる。バラ攻撃だってお前さんのことだから悪気はないんだろう。だけどあんたには大切なものが欠けているんだよ。」
もはや徹也に返す言葉はなく。玲子さんは「帰る!」と一言残して店を出て行った。
 僕の予想は大きく外れたが、何故だかうれしくなってグラスに3分の1だけ残ったレモンサワーをぐいと飲み干した。でも、それを徹也に悟られてはいけない。僕はこみ上げる嬉しさを噛み殺して「まあ落ち込むなよ、お前ならいい人すぐにできるからさ。」と、なんの慰めにもならない棒読みの言葉を哲也の上に置いた。
「明弘頼む。追っかけてくれ。おれはもうだめだ。」哀れな徹也よ、もう良い今日は休むのだ。後を任されても何もできんがとりあえずお前は勇者だ。

 店を出て追いかけようと身構えると、意外に近いところに玲子さんは突っ立っていた。どうやら壊れた玲子さんの精神はだいぶん修復したように見える。
「おーい、せっかくの送別会なんだし、機嫌直して戻ろうよ。徹也も諦めたみたいだし。」
「ごめんなさい。明弘くんにまでいやな思いさせちゃった。あんなに怒らなくてもいいのにね。やっぱり私帰るよ。徹也くんにも謝っててくれる?」
ぼろぼろになった徹也を思うと何も怖くないと突然開き直った僕は、それでも激しいとばっちりにならないように言葉を選んで言ってみた。
「あのさあ、さっき俺の方が徹也より100倍いいって言ったじゃん。まあ一応確認だけど、俺にも可能性あるってこと?」
次の瞬間、「私、明弘くんがいい。」という玲子さんの声によく似た音声信号が玲子さんの方向から伝わり僕の耳小骨を振動させた。念の為玲子さんの付近に別の音源がないか確認するが、どう考えてもこの音声の発信源は玲子さんとしか考えられない。もしや自分の願望が有りもしない声を聞いたのか。玲子さんは両手をぎゅっと握りしめ、唇を尖らせて上目遣いにこちらを見ている。どうやら今宵は人の神経を狂わせる瘴気が立ち込めているらしい。玲子さんは未だバグから復旧しておらず、僕は僕で「はて玲子さんは近眼だったっけ? いや、別の時空に迷い込んだか?」などと冷静に原因を探っているがこちらのCPUも落ちる寸前だ。
 一人で二次会場に戻ると、徹也が「欠けてるものって何だ?いったい何だ?」と自問し、「玲子ちゃん、壊れちゃったねえ。驚いたねえ。」などと感嘆する人がいれば、一体何が悪かったのか、どうすれば良かったかを評価検討するグループありと、まるで先生がお休みで自習になった教室のようだ。一人が僕の帰りを目に止め、「やっぱり玲子ちゃん帰っちゃったか。」と返事を期待しないようなこえで言った。僕に気づいた徹也は非常に気まずそうな顔をして近寄ってきた。
「なんかさあ、勢いで『オタクの明弘』なんて言っちゃって、ホントごめんなさい。」
このへんが徹也の憎めないところだ。
「ところで明弘、お前なんか気持ち悪いんだけど。玲子さん何か言ってた?」
「うん、徹也に謝っておいてくれって。それから、俺と結婚するって。」
そこにいた全ての人間が口を最大に開いたまま固まった。店のスタッフもだ。
徹也は僕の口元に玲子さんの口紅色を見つけてヒイッっと声をあげたが、その時点で僕は何がヒイッなのかわかっていない。少ししてトイレで僕も鏡を見てヒイッと叫んだが、玲子さん色を消したくない僕は今夜はもう何も口にすまいと誓った。
 怪しいカオスの中で二次会は終わり、最後に徹也は「明弘、ぐっじょぶ。」と力なく親指を立てて闇の中に消えていった。

 ドアノブに鍵を差し込み右に半回転。静かにドアを開ける。「ただいまあぁ。」といつもより元気に声を上げる。「お帰りぃ。送別会どうだった?遅いから今日は遊べない?」ざわざわと声が聞こえる。「今日は発表がありますっ!ジャジャーン!」「なになになに?新しい仲間?」「新しい仲間といえばそうだなあ・・。実は、わたくし坂下明弘は、宮本玲子さんと結婚することになりましたっ!」「うわー、明弘くんが結婚?」「明弘くんゴールイン!」「明弘くんおめでとう。」と声がする。バルタンはいつも以上にふぉっふぉと笑ってくれる。どうだ驚いたか怪獣たちよ。僕は君たちと遊んでるだけじゃないんだぞ。ちゃあんと彼女ができたんだぞ。こんどは玲子さんと一緒にこの部屋で君たちと遊・・・。
 エレキングがぼそっと言った。「玲子さんは僕たちと遊んでくれる?」その声ではっと我に帰った怪獣たちは静まり返った。
「たぶん大丈夫だよ。玲子さんはみんなのこと知ってるし、それでも結婚してくれるんだから、遊んでもらえるよきっと。」おそらく僕の仲間が捨てられることはないだろう。でも、今までのように遊べるかどうか自信がなくなってきた。
 ふいに携帯がブルった。玲子さんからラインの招待。今までも会社の若者グループで玲子さんとはつながっていたが、1対1で開通するのは緊張だ。
「ふつつかな嫁ですがよろしくお願いしますw」
「なんだか今日が信じられない気分。夢じゃないよね」
「今度の土曜日、京都まで来れませんか?」
「大丈夫」
「両親を紹介します」
「うわー緊張」
「私の方が緊張です おやすみなさい」
「おやすみなさい」
今宵、人々(少なくとも僕と徹也と玲子さん)の神経を尖らせた瘴気は明日の朝まで漂っているだろうか。明日の朝、ああ生々しい夢を見た惜しいことをしたと残念な目覚めを迎えるのだろうか。明日の朝、玲子さんから昨夜はほんの気の迷いでしたごめんなさいあの話はなかったことにしてなどと電話で訴えられるのだろうか。冗談を真に受けてばっかじゃないの私は徹也と結婚するの昨夜は余興よ余興あら傷ついた?なんて笑われるのだろうか。法外な幸せを手にすると、それを失うきっかけになる全てのものを遠ざけたくなるものだ。今は睡眠が全てをチャラにするのが怖い。
 すでに夜の1時を過ぎた。僕は眠らない覚悟を決めてコーヒーを最大濃度に淹れて、四畳半に向かった。もちろん玲子さん色の口もそのままだ。
(第2章につづく)


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舟山義広 チップをいただけるレベルではございませんが、応援いただけると舞い上がります!