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小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(4)

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第2章の2


 所沢の僕の実家は自分で言うのもなんだが普通の家だ。宮本家に比べれば知的及び生活水準は低いかもしれないが、とりあえず中流家庭であることを自認している。一般的に中流が何を指すのかは知らないし何千万人いるかわからない中流人間の何番めなのかも判然としないが、「お金ないなあ」と言いながらも家族全員が明日の糧に窮することがないことを信じている程度の家庭である。印刷所勤務の父、学習塾で事務員をしている母、大学生の妹の3人が住んでいて、就職を果たした僕は南千住でアパート住まいだ。
 僕が京都でやらかした一週間後、今度は玲子さんが僕の家にやってくる。10時ごろにやって来る玲子さんより早く僕は実家に着いた。家族には「彼女が家に来るからしっかり掃除しておいてくれ。」とだけ話している。
「ただいま。」玄関を開けると、僕以外の家族全員がドカドカと走ってきた。
「お帰り明弘。あれ?彼女は?」
「一人で行くから家で待ってて下さいって言われた。」
「おい、せめて駅まで迎えに行くとかあるだろうが。」
 そう、一般的には父が正しい。でも、僕としてはここまでの流れが綱渡りに近い感覚で、彼女の言いつけに背いて足を踏み外すのが怖いのだ。ここは彼女の言う通りにするのだ。玲子さんは「明弘くんみたいにタクシーで行く。」と言ってたから、それをきちんと待つのだ。
「で、どんな人?美人?」妹の麻美の言葉に促され、スマホを見せると、3人は写真の玲子さんを無言で見つめ、そしてドカッと湧いた。
「お前なあ、これドッキリ番組か何かか?」
「いや、ほんとにこの人。」
「あーあ、頑張って掃除したのにぃ。」
「いや、だからほんとにこの人が来るんだってば。」
「お兄ちゃん、もしかしてSNSで知り合った人とか?会ってみたら脂ぎったおじさんだったりして。」
 リアル玲子さんが現れた時の家族の動揺を動画撮影しなかったのが悔やまれる。父は突然いなくなったと思ったらスーツ姿で再び現れ「寿司を注文しろ寿司だぁ!」と叫ぶ。ちなみに我が家では出前を取る風習はない。母は茶葉を入れ忘れた急須から透明な湯を注いで出した。麻美は「こんなお姉ちゃんが欲しかったぁー。お兄ちゃんありがとー!」と叫んで玲子さんに抱きついた。僕はと言えば、やっぱり実物の玲子さんは美しいと思い写真に撮りたい衝動に駆られたが「肖像権の侵害です。婚約は破棄します。」と言われるのを恐れて動けない。

 一家の緊張が解けたのは「マラソンで5時間」の話をしたところからだ。父も母も自分の言動が結婚をぶち壊すことを恐れてほとんど喋れなかったようだが、他に大きな障害があることを知ると責任を逃れた気になるらしい。申し訳なさそうにしている玲子さんの前で作戦会議が始まった。「ジムに通え」「一番性能のいいシューズを買え」「筋肉を疲れさせないタイツがあるらしい」「お兄ちゃん今から走ってきなよ。私玲子さんとおしゃべりしてるから。」「そうだ、とにかく練習だ」「早く走れる食事ってあるのかしら」「替え玉は、やっぱりダメか」「そうだ、ドーピングだドーピング!」「それって売ってんの?薬局?」はじめから心配はしていないが、坂下家の人間は僕を応援してくれている。

「ただいまー。」
「おかえりー。玲子さんは帰ったの?」
「うん、明日仕事だし、泊まっていけないもんね。」
「仕方ないよ。まあ、先は長いし落ち着いていこう。」
南千住駅から徒歩15分の我が家は、6畳、4畳半の和室に4畳半のダイニングが付く2DKのアパートだ。ダイニングの隅には後付けしたシャワーブースもある。これで家賃が5万8千円だから破格の物件といえる。築42年で若干畳がふかふかするが問題はないし、趣味の部屋が確保できることを最優先させて決めたアパートだ。初めは専門のショップで購入した怪獣を並べていただけだったが、今や部屋を埋めつくすジオラマに3Dプリンターで自作しペイントを施した怪獣が立ち並ぶ。
 もしもの時に備えて自分の部屋とは思えないほど綺麗にした部屋で、冷蔵庫からデパ地下の高級お惣菜を出して缶ビールを開けた。ポルトガル料理屋の夜から、まだ十日しか経っていない。十一日前の自分は今の自分を想像できただろうか。もし今の自分がタイムマシンで十一日前に戻って「明日、玲子さんと結婚の約束をする筈だからお楽しみに。」なんて言おうものなら、過去の僕は未来の僕を殴りつけるだろう。人生はわからない。
「ねえねえ、トレーニングの計画立てた?」
「今日は走らなくていいの?」怪獣たちが騒ぎ立てる。
「ちょっと、自分の頭を整理させてくれよ。まだ十日だよ。」
「玲子さんと結婚するために走るんでしょ?簡単なことだよ。」
ウルトラマンとザラブ星人が説教をたれる。
「でもね、展開が急すぎるんだよ。二人が戦って最後に必殺技を出そうとした次の瞬間、場面が切り替わって温泉で浴衣着て宴会場でカンパーイってなったら、ついていける?」
「うーん、とりあえず光線出すのはやめるわな。」「だよな、乾杯したら、まず刺身からいくね。」怪獣も刺身食うんかと毒づいて、改めて今後の生活を考える。来年の冬、京都マラソンの日まで、とにかく走ること、体力を増強することに全ての情熱と知恵と時間を注がなければならない。
「ねえ、来年の京都マラソンまで、あんまり遊べないかも。」
「気にしないでいいよ。僕たちだけで遊んでるから。」
「そうそう、頑張って玲子さんをゲットしてちょうだい。」
「応援してるぞ、がんば!」
「でも、僕たちを捨てたりはしないでね。」
「大丈夫、また遊ぼうな。」
おしゃべりをやめない怪獣たちを置いて、早めに眠りにつく。明日から本気で頑張る。突然テレビでよく見るなんとか先生が現れて「走るなら、今でしょ!」と強く言い切ったが、ごめんと謝って布団を被った。
(つづく)


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