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小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(5)

物語のスタートはこちらです


第2章の3


 翌日から僕は、帰宅するとジャージに着替えて夜のランニングを開始した。アパートを出ると、ついさっき歩いていた道を逆走する。やや狭い路地を3回曲がると駅前通りに出る。ここから広い歩道を走ると、すぐに荒川スポーツセンターが現れる。ここにはジムがあって400円で使えるが、今は改装工事で使えない。パラリンピックでシッティングバレーの練習会場になるのだという。盛り上がっているのは大変結構なことだ。スポーツセンターを過ぎてしばらくすると、「ジャンボパンの青木屋」が出てくる。そういえば最近食べてないなあと思うがすでに店は閉じている。さらに走ると道は少し狭くなり歩道に人がいると抜くのは困難だ。でもまあこれは仕方がない。歩道は歩道であって走道じゃないんだから。やや狭い道を突き当たりまで進み、その後2回路地を曲がると、南千住駅に着いた。駅前ロータリーを一周して、再び元の道をアパート目指して走る。これが夜の日課だ。ちょうど3キロだが30分かかる。このペースでフルマラソンなら7時間になるが、まずは体を慣らすところから始めるのだ。
 土曜日は近所の汐入公園に出かけた。隅田川畔にある汐入公園には往復4.6キロのランニングコースがある。ここを4往復半で距離は20キロと700m。ほぼハーフマラソンだ。いきなり20キロはきつい気がするけど、最初に自分の力を確かめる必要がある。入念に準備体操を行い、9時ちょうどにスタート。曇り空で暑くもなく、隅田川から吹く風も気持ちがいい。なかなか素敵なコースだ。実際かなり人気のある場所のようで、多くのランナーがいる。それに途中に水飲み場があるのがいい。ここを給水所にしよう。これは良いところを発見したという嬉しさと、川の向こうに立つスカイツリーに見とれて、1周目は疲れをほとんど感じない。時計を見ると9時25分。なんだ、自分は走れるじゃないか。これなら2時間でなんとかなりそうだ。
 そんな甘っちょろい考えは、2周目で吹き飛んだ。どうやら1周目で体力を使い果たしたようで、スピードはガクンと落ちる。喉がカラカラになり、給水所でがぶ飲みしても治らない。そのうちに腹がたぷたぷして腹痛を起こした。なんとか2周目を終えたところで時計は10時を過ぎている。たしか1周目のどこかで抜き去ったオレンジTシャツのじいさんに抜き返された。どこかのマラソン大会の参加賞らしい蛍光オレンジがどんどん遠のいていく。くっそー、あのじいさんに負けてるのかよ。やっぱり日頃から走ってる人には敵わないようだ。これまでの不摂生を呪いたくなる。今日はもう止めようかと悪魔が囁くが、玲子さんの笑顔を思い出して気力で走り続ける。今日は2時間で走るなんて無理だ。せめて決めた距離は走ろう。今走ることから逃げたら、明日も逃げ出すだろう。うん、そうだよ。気持ちだけは負けちゃだめだ。最後まであきらめちゃいけない。
 玲子さんと4畳半の怪獣たちを交互に思い浮かべながら走り、3周目を終えたところで時計は10時50分。喉はゼコゼコ音を立て、足も痛くなってきた。一応腕を振ってランニングのポーズをとっているが、もはや歩くよりも遅い。4周目にして蛍光オレンジから再び抜かれ、周回遅れとなった。抜き去る時、オレンジは速度を緩め、「兄さん頑張ってるねー。どれくらい走るの?」と聞いてきた。「よ、四往復半です。ぐふっ。」と息も絶え絶えに答えると、「ファイトォー!」と叫んでオレンジは再び速度を上げた。オレンジはどう見ても玲子さんのお父さんより年上だ。来年の京都マラソンの時だけ、あのオレンジの体をレンタルしたいと心から願う。でも、それはできない。ウルトラマンや怪獣にも、徹也にも、すでに小さな点になったオレンジにも代わってもらうことはできないのだ。だって玲子さんと結婚するのは自分なのだから。
 気持ちだけはなんとか前向きさを維持しながら4往復半を走り終えた時、時計は12時を過ぎていた。

 その日の午後、近所の「大勝湯」に行った。いつもはアパートのシャワーで間に合わせているが、時々無性に湯船に浸かりたくなると近所の銭湯まで自転車を漕ぐ。いつもは駅前の「草津湯」か区役所の先の「野崎浴場」に行くが、今日は薬湯のある「大勝湯」を選んだ。「大勝」の名は縁起も良いし、ハーフで3時間かかってしまった「縁起の悪い」自分を清めてもらいたいという願いもあった。薬湯の中で太もものマッサージをしながら、京都マラソンをイメージする。でも、どう頑張っても6時間台でゴールする自分しか思い浮かばない。途方に暮れながら今度はふくらはぎを揉む。足いてえな。
 なんだか妙な視線を感じて顔を上げると、「おお、兄さん。」と笑う禿げたじいさんがいた。一瞬誰だっけと頭がフル回転したが、すぐに判明した。オレンジだ。
「兄さん、公園で初めて見る顔だけど、今日頑張ってたねえ。」
「おじさん、オレンジのシャツの方ですよね。」
「そうそう、オレンジ。」
「速いですねえ。ずっと前から走ってるんですか?」
「そだね、20年くらいなるかな。」
「大会とか、出たりしてますか?」
「うん、おととし東京マラソン出たよ。去年は抽選外れちゃったけど。」
「タイムとか、聞いていいですか?」
「ぎりぎりサブファイブってやつだな。」
「さぶふぁいぶ?」
「5時間切ったってことよ。」
「うわー、僕、それくらいを目標にしてるんです。」
「兄さん、大会は?」
「いえ、出たことありません。で、どうしても来年5時間で走りたいんです。」
「それじゃ、頑張って走らなくちゃ。でも、言っちゃわりーけどフォームばらばらだ。あれじゃ持たんよ普通は。」
 オレンジと僕は、毎週土曜日に一緒に走る約束をした。
(第3章につづく)


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