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小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(10)

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第5章

 なんてこった。捻挫した。おまけにインフルエンザ。大会2週間前に、何やってんだ俺は。
2月2日、日曜日。久々に天気が良く、徹也に誘われてテニスをした。大会まで残り半月となり、今日が最後だなあと喋りながら、いつも通りにボールにくらいついた。徹也のボールがいつもより厳しかったわけではない。逆にやや加減していたと思われるが結果的にそれが凶とでた。余裕をぶちかましながら右、左、右、今度は左と追いかけていたら、逆をつかれた。慌てて踏み込んだ左足がスリップし、それを支えようとした右足を豪快にひねってしまった。
「うわっ、いってえー!」
すぐに徹也が駆けつけテニスシューズと靴下を脱がせる。足の甲の右側が少しぷくっとしている。
「すぐに冷やせ、とにかく冷やすんだ!」
徹也の指示で台所から多量の氷が運ばれ、氷水の入ったバケツに足を突っ込む。
「ひわー、つめたい!」
「我慢しろ明弘!すぐ何も感じなくなる。」
実際、すぐに患部は痛みも冷たさも感じなくなった。
「15分そうしてろ!」そう言い残すと徹也は家に向かって走っていった。しばらくするとキネシオテープやら炎症剤やらいろいろと揃えて戻り、僕の治療をする。
「ごめんな明弘。最後にこんなことになっちゃって。」
「いや、徹也が悪いんじゃないよ。ちょっと油断した自分が悪いんだ。」
 徹也はほぼ完璧に治療をしてくれたが、念のため徹也の家の車で病院に向かった。徹也は骨のことや筋線維の断裂がないといいなあと心配していたが、僕ははじめて「運転手付きの車」というのに乗って、先日パレードをしていた天皇を思い出していた。幸い骨に異常はなかったが右足の甲は内出血していて、「2週間は安静にしていなさい。」と言われた。おいっ!2週間後はマラソン本番だ!
 次の日から、会社が終わると徹也に連れられて「酸素カプセル」というのに入った。なんでも超有名なサッカー選手が骨折後に入って、驚異的なスピードで回復したらしい。1時間3500円となかなかのお値段だが、「これだけは俺に払わせてくれ。」という徹也の申し出を有り難く頂戴した。しかし4日通ったところでなぜか熱を出し、今度はインフルエンザの診断を受けてしまった。医者によれば、最短で熱が下がれば月曜日には外に出て良いとのこと。完全回復した時点ですでに1週間を切っている。つくずく俺は大事なところで失敗する。おそらく自分の人生で一番大切な一日のためにここまで頑張ってきたのに、何てこった。僕の頭の中に雲に乗った神様がひょうと現れ「はい、あんた無理!」と言い残して去っていった。しかしやってしまったものは仕方がない。これから5日間、部屋に籠るのだ。
「みんなー。残念ながらみんなと遊ぶ暇できちゃった。」
「インフルでしょ。知ってるよ。」
「月曜まで出られないから、みんなとジオラマの掃除をきちんとしてあげよう。」
「わーい!だけど、インフルエンザって僕たちに感染しないの?」
怪獣たちがざわつく。
「おもちゃには伝染りません!」
「でも、わかんないぞー。そりゃあ、インフルビーーーム!」ウルトラマンが突然叫ぶ。
「わあっ、ウルトラマンの脳がウイルスにやられてるう!」ギャンゴが言い返す。
「お前に言われたぁないわい。ほれ、スペシウム、シャー!」
「いったいなあ···明弘くんがピンチの時に、ひとりで騒いでんじゃないよ。」
2人の喧嘩を聞きながら僕は黙々と怪獣たちを水拭きする。
「ところで明弘くん、ご飯どうすんの?」
「みどりさんが差し入れ持ってきてくれるって。」
夕方、みどりさんがやってきて玄関の外に食料を置いていった。感染リスクを考え直接手渡しせず、「みどりさんが来てやったよー。ご飯おいてくよー。」「すみませーん、ありがとうございまーす。」の交換だけしてそそくさと帰っていった。みどりさんの段ボール箱にはスナックで出す定番料理と、スポーツドリンク、リポビタン、牛乳、クリームパン、バナナ、みかん等々ぎっしり詰まっていてかなりの重量だ。タクシーを使ったのだろうか。それともオレンジの車だろうか。そうだ、僕のマラソンは「千住歓走会」の今年の目標でもあったのだ。それに「千住ウォーク」で有名になった僕としては、「風邪ひいて出られませんでした。」では済まされないのだ。
 肉じゃがをチンして熱々を食べる。うまい!みどりさん、ありがとう。

「明弘くん、いってらっしゃーい! 頑張ってねー!」
わいわい騒ぐ留守番部隊に手を振り、扉を開ける。ピューと寒風が部屋に侵入する。その寒さが気持ちいい。静かに扉を閉め、鍵を差し込み左に半回転。シリンダーが伸びてドア枠の穴に収まった。明後日、再びここで鍵を右回転させる時、僕は凱旋する勝者だろうか。それともボロボロに打ち砕かれ··いや、マイナス思考はマイナスの未来に引き込む悪魔の囁きだ。成功するイメージだけを考えよう。インフルエンザはもう治った。いい方に考えれば、免疫が完成してるからもう熱を出すことはないだろう。足の捻挫もたぶん問題ない。予期せぬアクシデントで2週間走っていないが、見方を変えれば休養は十分なのだ!
 駅前通りを歩くと「ジャンボパンの青木屋」が既に開店していた。迷わず入店し、ハムカツパンとコロッケパンを買う。店の親父さんから「いよいよだねえ。頑張ってよお。」と激励を受け、メンチパンをサービスしてもらった。わらじ大のコッペパン、しかも全部揚げ物入り3つをビニール袋に下げて、南千住駅にたどり着く。千住歓走会のみなさんとは昨夜に簡単な壮行会をしてもらったので、今日は誰にもあいさつしないで電車に乗り込んだ。
 東京駅のホームでウーロン茶を買い、9時47分発の「のぞみ315号」に乗り込む。「のぞみ」、いい言葉だねえ。「315号」、さあ行こう!あるいはサイコー!という語呂合わせが気に入って選んだ列車。もう少し遅い列車でも問題ないのだが、すがれるものがあれば何にでもすがりつくのだ。座席を確認すると、スポーツバッグを棚に上げてメンチパンを食べる。青木屋の親父さんにお土産買って帰ろうかな。でもお菓子も売ってるパン屋さんにお菓子のお土産じゃ殴られそうだ。カブの千枚漬けにしよう。歓走会のメンバーにも何か買わなくちゃ。やっぱ八つ橋かなあ。それとも「京都のすごいとこに行ってきました。」なんて名前の、賞味期限が異様に長い饅頭みたいなのがきっとあるに違いない。ぽくぽくしてお茶なしで挑戦すると命を落としそうな、極限まで水分を削ぎ落とした白あんが入ってるやつ。逆にそっちがウケるだろうか。

 12時4分、京都駅着。意外にあっさりコッペパンを食い切った。腹が重い。昼の心配はなさそうだ。地下鉄を乗り継いで東山駅に降り立ち、徒歩10分で「みやこメッセ」に着いた。ここで選手の受付をするのだ。会場にはすでに多くのランナーが並んでいる。その列の最後尾につけて順番を待つ。人も多いが受付の人もかなりの数で、思ったよりも早く自分の番が来た。受付では先に郵送されてきた書類と身分証明の免許証を見せて、ナンバーカードと参加記念の品々をもらう。10万円払った「ふるさと納税ランナー」だが、ナンバーカードは他と変わらない。ふうむ、いかにも成金趣味なゴールドなら逆にあっぱれだが、京都は冒険しないのか。まあ良い。明日はこれで疾風のごとく走ってやる。受付を済ませると協賛企業スペースに寄ってみる。会場はスポーツや食品のメーカー、京都観光のブースが並び、お祭り感満載である。あちこちで「さあ、いよいよ明日でーす!記念のTシャツ、キャップはいかがですかあー。」とか「スポーツドリンクの試飲コーナーです。最新の研究に基づいたなんちゃら配合の···」などとマイクを通して叫んでいる。特に買うものもないのだが、「疲れない靴下」というものを見つけて一足購入した。1480円の靴下というのは、自分史上最高値である。さぞかし力を発揮してくれるに違いない。
 京都駅に戻り、駅前のホテルにチェックイン。こちらも自分史上最高値のホテルではあったが、10万円の参加料を支払った直後で金銭感覚が麻痺していて、その時は何も感じなかった。カード破産する人間というのは、こんな感覚なのだろうと根拠もなく実感する。フロントのお姉さんは美しく、僕のスポーツバックを見て「明日のマラソンですか?」と聞いてきた。「はい。」と答えたら、「マラソンランナー限定、携帯食ドリンクセット」なるものを貰えて嬉しかった。「頑張ってくださいね。」と微笑むお姉さんを「玲子さんの次に美しい人」に任命する。フロントのお兄さんに荷物を持ってもらい、明日のコースはどうだとか天気はまずまずですとか説明付きで部屋まで案内される。なぜか徹也の運転手さんを思い出し、あいつの日常はこうなのだろうかと想像してしまう。お世話してくれる人がいるというのは確かに便利だ。それにちょっとだけ気分がよろしい。
 部屋に入り、バッグから最初に取り出したのは「マラソン怪獣 イダテンラン」の写真だ。ウルトラマン80に出ていたマイナーな怪獣で名前も情けないのだが、これほど状況にぴったりな怪獣は他にいない。時間があればフィギアを自作したかったが、トレーニング期間に落ち着いて作業もできず、今回は写真で我慢だ。
「ぷぉーっ、やっと着いたかあ。」写真のイダテンランが喋り出す。
「イダテンラン殿、ここが京都でございます。明日、どうか力をお授け下さい。」デスクの中央に写真立てをセットし、コップに水を入れ、ついでに「携帯食ドリンクセット」も供えて手を合わせる。「任せておきなさーい!」力強くイダテンランが応える。それから明日の道具をベッドに並べる。「千住歓走会」と横書きにプリントされたチームのTシャツ、黒の短パン、その下に履くパンツ、SKINSの加圧タイツ、疲れない靴下、帽子、手袋、サングラス、ウエストポーチにエネルギーバーとお金、そして忘れてならないのがナンバーカード。完璧だ。最後の2週間は散々だったがで、今は負ける気がしない。僕には玲子さんとイダテンランがついている。

 スマホがブーと鳴った。玲子さんからメッセージだ。
「ホテルに着きました」
ロビーに降りると、ソファに腰掛けてた玲子さんの顔がパアッと咲いた。
「明日だね。」
「うん。」
コーヒーを飲みながら僕は幸せなひとときを噛みしめていた。今この瞬間、玲子さんは僕の婚約者で間違いないのだ。そもそも何故玲子さんが僕を選んだのか、未だ謎だ。こんな幸運をもたらすような良いことをした記憶もない。もしかしたら前世の自分がとんでもない善行をしたのかもしれない。だとしたら前世の自分にありがとうと叫びたい。「お前は大変良いことをした。ご褒美に美しすぎる嫁さんを授けよう。ふぉっふぉっふぉっ··」頭の中に再び神様が飛んできて語りかける。一方、玲子さんの頭には別の神様がやってきて「お前はヒジョーに悪いことをした。罰として冴えないお婿さんを授けよう。しかもお前は冴えない婿が冴えないことに気がつかないで恋をするのじゃ。ふぉっふぉっふぉっ··」玲子さんにとり憑いた呪いが解けないことを僕は神に祈る。
「頑張って。」
「うん。」
会話が続かない理由は、「幸せを噛み締めている」だけではない。「明日、望まない結果が訪れたときにどうするか」という議題を僕は避けていたし、おそらく玲子さんも同じではないかと。二人とも触れたくないのだ。下手に喋り出して話題がそっちに流れるのが嫌なのだ。だから自然に無口になってしまう。あー早く結果を出したい、けど結果が怖い。今が幸せだから、時間よ止まれ。でも時間が止まってもその間自分の意識も止まってるから実は意味はないのだ。たまにテレビアニメで、時間を止める怪人とヒーローが止まった時間の中で戦ったりしてるけど、その他大勢は時間が止まったことすら気づかない。あー、止まった時間の中で自分だけ動けたら、明日は3時間で走ってやれるのに。
「明日、応援に行くね。」
「玲子さん、どこにいる?」
漠然と僕は、玲子さんの手を握って「行ってくるよ。」と囁く僕を目をうるうるさせて見送る玲子さん、コース途中で手をぎゅうっと握り声を出す玲子さん、ゴール地点で満面の笑顔と涙で両手を広げる玲子さんを勝手に妄想していた。
「明弘くんが集中できないと困るから、気づかない場所でそっと見てる。」
明日の朝も合わないという玲子さんの言葉に僕はちょっと悲しくなる。あまり長居しても明日に差し支えるからと、お守りをひとつ置いて玲子さんは早々に帰っていった。明日のゴール地点に近い平安神宮のお守りは、かすかに玲子さんの香りがした。
(第6章につづく)


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