小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(11)
物語のスタートはこちらです
第6章の1
1万6千人が整列するというのはこういうことなのか。僕のナンバー「G20003」のGは、スタートで並ぶ場所を表している。ブロックGから本物のスタート地点は見えない。後ろに目を向けると集団の最後尾も見えない。そんな大集団の中で孤独な気持ちになるのは何故だろう。それは単純に知り合いがいないからなのか、走ることが大好きな集団に違和感を感じるのか、おそらくその両方だろう。天気は薄曇りで雨の心配はないが、多くのランナーがビニールカッパやゴミ袋をかぶっている。これは待っている間の寒さ対策で、僕も首と手の部分に切れ込みを入れたビニール袋を装着しているが、腕だけは寒い。箱根駅伝のテレビ中継を見ると直前までコートを羽織っているが、あれは走る人数よりサポートの数が多いからできること。1万6千人が一気にコートを脱ぐなんてことが許されるわけもなく、すでに1時間以上前に預けた僕の荷物はトラックでゴール地点に運ばれていった。寒空にランニング姿で放り出されたランナーにとってスタートまでの時間は異様に長い。寒いから朝のラッシュみたいに混み合っているのは逆にありがたい。ランナーの多くは普通にTシャツと短パンにタイツ姿だが、コスプレランナーも多い。三角巾つけたお化け、舞妓さんカツラ、アラレちゃん、お姫様、京都タワー、ハロウインの衣装を流用した衣装も多い。着ぐるみもいる。オーソドックスなうさぎやクマ、たぶん無名のゆるキャラ、さっきはガンダムともすれ違った。かなりふざけた格好だが、制限時間6時間の大会に着ぐるみで参加するのだから、少なくとも僕よりは実力者に違いない。
8時半から始まった開会セレモニーの音声だけを聞きながら、それぞれが軽く足踏みしたりストレッチしたり記念撮影したり、とにかく動いている。集団はほぼサロンパスの匂いが優勢だが、時々クリームパンや唐揚げも自己主張する瞬間がある。僕もちょっと腹減ったなあと感じてエネルギーバーを出そうとしたが、時計を見たら5分前だったのでやめた。9時にピストルの音がスピーカーを通して聞こえ、わあと歓声が上がってみんなが数歩前に進んだが、先が詰まってるのでそれ以上は動けない。おそらく先頭のAブロックは走り出し、そろそろBだろうか、こうしてる間にも5時間6分12秒の砂時計はサラサラと落ちていく。わかっていたことだが、実際にこの場に立つとかなり焦る。落ち着け明弘、落ち着け、大丈夫だ。
9時11分、スタート地点を通過した。ぎゅうぎゅうだった集団は多少ばらけ、走れる状態になった。これまでの鬱憤を晴らすようにみんなが頑張るから、自然に集団のペースが速くなる。自分の実力より相当速いような気がするが、下手にマイペースを守ると逆に危ない。ここはもう少しばらけるまで流れに乗るしかない。1万人を超えるマラソン大会恐るべしだ。でも、不思議と疲れは感じない。集団の中にいるとエネルギーを使わないということなのか。それならこのまま走っちゃえばいいのか。意外にあっさり走り切っちゃったりして。いやいや、ここまでの練習を思い出せ。いつだって最初はイケるって思うんだ。でもすぐに、それが勘違いだったことに気づいて苦しむんだ。今日もそのパターンになるかも。いや、それにしても足が軽い。捻挫してたの忘れてた。大丈夫だ、このまま走ろう。
5キロを過ぎても僕は快調に走っている。時計は9時45分、この5キロは30分で走ったことになる。ずーっとこのペースなら40キロで4時間、悪くない。でも、桂川沿いから嵐山、そして西賀茂橋の18キロ地点まではだらだらと登る。ここでペースが落ちないように気をつけなければならない。給水所でスポーツドリンクを飲み、羽織っていたビニールをゴミ箱に捨てた。集団はかなりバラけたが、前から落ちてくる人と後ろから抜いていく人が交錯し、接触のリスクはまだまだ高い。かなり気をつけて走らなければならない。そうやって走っていると、前方にドクタービブスのランナーを見つけた。修だ。
「おお明弘、追いついたか。」
「うん、ここまでは絶好調。」
「もうちょい先に5時間のペースランナーいるから、付いてくといい。」
「じゃあ、そこまで行ってみる。」
「いきなりペース上げんなよ。」
「わかってるって。修は?」
「基本5時間ペースだけど、明弘の少し後ろ走るわ。前だとトラブル気づかないし。」
「だな。悪の組織来たら、守ってよ。」
「ないない。とにかく水分ちゃんととれよ。陽出てきたし。」
しばらくして、「5時間」というビブスと風船をつけてるランナーを発見した。これがペースランナーか。ペースランナーは20人くらいを引き連れて走っている。ここまでの自分のペースよりも明らかに遅い。このままペースランナーについていこうか迷うが、先に行くことに決めた。こっちは病み上がりの怪我上がりだ。これについていって30キロくらいで失速したらおしまいだ。今は元気に走れるのだから、ここで時間を稼いでおく。要はこの集団に抜かれなければいいのだ、
沿道には多くの応援がいて、旗を振ってたり横断幕を掲げたり、それぞれがマラソン大会を楽しんでいる。「抽選に落ちた俺の分も走れ」というプラカードがあれば、「もうすぐだ!残りたったの32キロ」と気分を落ち込ませるものもある。「浩輔、病に負けるな!」なんて看板を見ると、浩輔くんの病は何だろう、大変なんだろうなあと思って熱いものがこみ上げたりする。いずれにしても、沿道の声援は力になる。僕のランニングを見て、「わたし、千住出身よー。」と叫んだおばちゃんもいた。僕の背中は肩甲骨あたりに手書きで大きく「愛する人のために僕は走る」と書いてあり、その下には歓走会メンバーの寄せ書きが縦に並んでいてまるで般若心経だ。その背中を見て走るランナーからも激励の言葉をもらい、かなり恥ずかしい。しかし「恥ずかしい」が「疲れた」を封じ込めてるのは間違いない。ここまではオレンジの作戦が効果を上げている。
コースは仁和寺を通過し、西大路通、北大路通と北上する。10キロあたりから集団は落ち着き、周りがほぼ同じペースになった。自分のそばには「一本足下駄の天狗」と「ウクレレお兄さん」が走っている。天狗さんは背中に普通のシューズを結わえていて、いつ履き替えるんですかと聞いたら、「沿道の声援が途切れないので、履き替えるタイミングがつかめないんです。」と言った。ウクレレお兄さんは、「沿道で声援を送る人を元気づける」というテーマで走っているのだと言い、「ウクレレ、頑張れー!」と声がかかると、「声援も頑張って下さーい。」と返して演奏しながら走る。天狗さんもウクレレさんも僕より走れるのは間違いない。それから3人の黒いショッカー軍団が縦一列で並んでいて、「頑張ってください。」と声をかけると、揃って右手を胸に「イー!」と返してくれた。さっきは白装束で口から血を流した死体のような女性が、すり足なのに異様なスピードで追い抜いていった。彼女もきっと名のある人物に違いない。着ぐるみグループは苦戦しているようで、かなりの人数を抜いた。ガンダムは少し善戦していてしばらく近くを走っていたが、それも徐々に後退して見えなくなった。
西賀茂橋を渡り、ここからは下りになる。すぐに20キロの看板が見えて、時計は11時20分だ。5時間のペースランナーもはるか後方で見えない。順調に走ってきたが、だいぶ息が上がってきた。ウクレレお兄さんが後ろから「がんばれえー、彼女の、た、め、にいー。」と即興の応援歌で後押ししてくれる。天狗さんも「こっから勝負だ。」と声を上げる。僕と天狗とウクレレには友情が芽生え始めていた。(注:あくまでも個人の感想であって必ずしも3人の心情を確約するものではない)
「元気か、義理の息子候補生。」と声をかけられ跳び上がったのは25キロを過ぎてからだ。ブルーのシャツを着た玲子さんのクソ親父いやお父様が大汗かいて後ろを走っていた。
「おっおっお父さん、走ってらっしゃらったったんですかぁ?」
「口が回ってないぞ。そろそろお陀仏か?それからワシは君のお父さんではないっ!」
「えーと、義理のお父さんになるかもしれない宮本さん、ずーっと後ろ走ってたんですか?気づきませんでした。」
「いや、さっき抜かれたから悔しくてついてきた。」
一瞬、不安になって自分の時計を見直した。昔のお父さんの記録を超える必要がある僕が、少しくたびれた今のお父さんと一緒に走っていいのか。でも時計は11時45分。まだ余裕がある。「お父さん、速くないですか?」
「坂下くん、君に宿題を出したワシが羊羹食って寝て過ごしてるとでも思うたか。ワシだって日々進化してるんじゃい。今日の目標は5時間切りじゃー!」
クソ親父はかなりの負けず嫌いだが、しばらくすると後退していった。よし勝てる。でも親父に勝っても仕方ないのだ。ターゲットは5時間6分11秒だ。
しかし、疲れているのは僕も同じだ、30キロあたりからエネルギーが切れて、明らかにスピードが落ちてきた。天狗はまだ一本足下駄で走っている。さっき「もう最後までこれで行く。」と言ってたから覚悟を決めたようだ。ウクレレは比較的余裕の表情だが時々止まって演奏し、また走るの繰り返しだから結局スピードは僕と変わらない。僕は呼吸を整えてすーはーすーはーを繰り返し、沿道に玲子さんを探すが見つからない。後ろを見るといつの間にか「5時間ペースランナー」の風船が見えてきた。まだ100mは離れていると思うが、さっきより近づいているのは間違いない。あと10キロだ、ハナクソだ。ハナクソ、ハナクソ、ハナクソ···。
「ウクレレさん、ハナクソの歌、歌ってもらえませんか?」気を紛らわせようとくだらないリクエストをする。
「ハナクソお?んーーー··それじゃ、いくよ。
はなくそおーーーはなくそーぉぉぉぉー、なめていいのーはー、しょう2ぃーーまあでー
ジャカジャカジャーン!」
「あはははは、ありがとうウクレレさん、10秒だけ苦しいの忘れました。」
「こっちは10秒以上苦しんだわい!」
給水所でスポーツドリンクを2杯飲んで、最後のエネルギーバーに食らいつく。残り10キロの表示が出てきた。足は痛くないが肺が苦しい。
37キロを過ぎ、残り5キロというところで事件は起きた。
(つづく)
いいなと思ったら応援しよう!
チップをいただけるレベルではございませんが、応援いただけると舞い上がります!