見出し画像

小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(8)

物語のスタートはこちらです


第4章の1

 11月の第3土曜日午前8時半、快晴だが風が寒い。汐入公園ランニングコースでは「千住歓走会」のメンバーが給水所の準備をしている。折りたたみテーブルの上には水とスポーツドリンクがスタンバイ。別の場所には食べ物コーナー。会のメンバーがそれぞれ持ち寄ったお菓子やバナナがこちらも折りたたみテーブルに並んでいる。これは全て僕のために準備されたもの。会のメンバーの中で「そもそも明弘くんはいったい何時間で走れるのか。」と話題になり、記録会をしようとなったわけだ。僕のためだけに準備をしてくれるなんて申し訳ないし、そもそもみんなから注目されて走るなんて恥ずかしいから固辞したのだが、ただでさえ年寄りを説得するのは難しくそれが集団となると姫路城を足軽一人で攻め落とすくらい不可能なことだ。

 午前9時、ピストルの号砲が鳴る。ちなみにピストルは区の陸協からオレンジが借りてきたものだ。その時僕はスタート地点にはいない。300m離れた公園の入り口からゆっくり歩いていくのだ。「スタートと同時に走れると思ったら大間違いじゃ。下手すると15分後くらいにようやくスタート地点ということもある。」というオレンジの経験に基づき、今日はとりあえずスタート5分後に走り始めることになった。会のメンバーとおしゃべりしながらゆっくりとスタートラインに近づき、そして走り始める。僕だけはずーっと走り続けるのだが、他のメンバーは走りたい時だけ僕の伴走をして疲れたらコース沿いのイスに腰掛け、観客に変身する。
「ほれー、がんばれー!」「色男ぉー!」「今日はビールが美味いぞお!」様々な声がかかり僕はいちいち「はいっ!」と返事をする。いつもは4.6キロのランニングコースだが、今日はちょうど4キロになるようにコーンが置かれ、それを10往復半してから最後の195mをスパートする。目標は5時間切りだ。
 2周目、時計は9時半だ。5分遅れでスタートしたから25分で4キロ。このペースなら250分で40キロ。そうそう、このペースを守ればいいんだ。ほとんど汗もかいていないし疲れはない。順調だ。給水所の水を取る。隅田川の水上バスと一緒に走る。時々ふわっとディーゼルの排ガスの香りがする。太陽が眩しいが苦痛ではない。
 3周目、9時50分。あれ?かなり速いんじゃない?落ち着け自分。オーバーペースになるなよ。オレンジがCDプレーヤーで音楽を流している。曲名はわからんがマーチングバンドのようだ。「地元アマチュア楽団の演奏でーす!」とオレンジが叫ぶ。細かいディテールにこだわるオレンジの性格はこの半年で理解しているので驚きはない。クスッと笑うだけだ。
 4周目、10時17分。少しペースが落ち着いてきたようだが、まだ予定より早い。でも何故だろう。元気だ。もしかしたら5時間なんて超余裕で走れる力を既に自分は手にしているのかもしれない。「5時間?それくらいなら明日走れって言われても問題ないよね。」と、口に出して言ってみる。「ほんとかよ?」後ろを走っていたみどりさんが叫ぶ。いつの間にか後ろに人がいたことにギョッとする。「いえ、それくらいの、、きもち、、で、はしるって、、ことで」
 5周目、10時28分。まだまだ走れる。これは無理にペースを落とすより、このまま走りきっちゃえばいいんでないかい?給水所のスポーツドリンクを飲み、直後の食べ物ブースでバナナを食べる。走りながら食べるのは無理なので止まってしっかり1本。うまい。まだいける。
 6周目、10時54分。あれ、ペースが落ちてる。バナナで止まった分かな。いや、走れてるつもりでも徐々に疲労が溜まってるのかもしれない。オレンジは「マイケルシェンカーがランナーの応援にやってきました。」と言ってバリバリのメタルをボリュームマックスで鳴らす。まいけるしぇんかーって誰よ。それに警察に連行されたらどうするんだオレンジ。
 7周目、11時30分。給水所のたびに水とスポドリを1杯ずついただく。腹が少しタポるが喉だけ水分を要求する。「ちょっとぉ、あたしのきゅうり漬けも食べてよ。」というまさ子さんの言葉に負けて一本いただくが、これが予想外にうまい。
 8周目、12時8分。オレンジは35キロの壁があると言ってたが、30キロ手前でその壁がやってきた。「苦しいでーす!」と叫ぶ。すると、会のメンバーが「明弘くんピンチ。」「明弘くんピンチ。」と連呼して伴走を始める。「この壁を突破すれば楽になる。歯を食いしばれー!」オレンジが叫ぶ。そうだがんばれまけるなと、いろんな声が混じり合って背中に圧をかける。風が欲しい。汗でシャツがくっついて走りにくいし気持ち悪い。何か気を紛らわすものはないか。この先のトイレの後ろから玲子さんが顔を出したら全ての疲れをリセットして走れるのに。スカイツリーの上空をキングギドラが飛ばんだろうか。水上バス沈めー!いやごめん沈んじゃいかん。妄想はいいが他人の不幸を求めてはいけない。
 9周目、12時51分。太陽がいっぱい。ビールがうまいぞ。右足の次は左足。守護神よ背中を押してくれー。呼吸音がぴょーぴょーとおもちゃみたいになる。おもちゃ?そう、僕はおもちゃ。おもちゃは疲れない。おもちゃは泣かない。おもちゃは走る。汗が目に入ると気分が落ち込む。いやおもちゃに気分なんかない。甘いにおいがする。なんだっけこれ··そう、ホットケーキ。足痛い。特に左足の甲。ホットケーキ食べたい。今すぐ食べたい。玲子さあぁん。
 最後の10周目、1時24分。「あと1周だぞ明弘!1周くらいハナクソだ!」オレンジの声がぐわんぐわん鳴ってる。1周じゃねえ1周半だハナクソ、ハナクソ、ハナクソ、ハナクソ···。「腰が落ちてる!」ここで技術的なこと言うな。苦しいんだよ。そう、僕は苦しい。苦しいは僕。僕イコール苦しい。僕の名は「坂下クルシー明弘」。ハナクソだ。玲子さん、僕はハナクソ。
 10周と半分が終わり残りは195m。時計を見ると1時59分。最後は盛り返したぞハナクソ。コーンを折り返し、猛然とダッシュをかける。「坂下選手、まもなくゴールです!」オレンジが拡声器で叫ぶ。どっから持ってきた拡声器!ハナクソめーっ!拡声器じゃねえ、必要なのはAEDだぁ!
 ゴールテープを切った僕は、そのままコースを外れて芝生の上に倒れ込んだ。ほぼ過呼吸状態で芝生の切れはしを吸い込んで盛大にむせる。土と草の匂いが強烈だ。心臓の音がドドドドと耳の中で鳴る。ああ僕は生きてる。AEDは無用だハナクソ。5時間で走った。切ったかどうかはともかく、玲子さんの親父の記録は破った。ぎゅーっと目をつぶり、再び開いた時にここは京都マラソンのゴール地点になってないかと試したが、やっぱりここは汐入公園。この苦しい思いをもう一回するのか。
「坂下明弘選手の記録、4時間59分24秒!」オレンジが高らかに宣言する。「明弘くんを胴上げだ。」とたけさんが言ったが、これだけは辞退した。
 ようやく息も整い、残った食べ物をみんなで食べながら、僕はインタビューを受けた。「千住ウォーク」というフリーペーパーの記者だという。みどりさんのスナックが広告を出している関係で連絡したらしい。マラソンのきっかけとこれまでの練習や「千住歓走会」のこと、京都マラソンへの意気込みなどを質問され、最後に写真を撮られた。

「ただいまあー。」
「お帰りい!記録出た?」
「おう、5時間切っちまったぜい。」
「やったじゃん、これでもう大丈夫だね。」
「うん、応援ありがとね。」
ここでウルトラマンがいやーな事を言い始めた。
「でもね明弘くん、僕の経験だとね、大丈夫だと思ってるとね、とんでもない落とし穴があるのよ。僕ね、今回は楽勝だなあと思った戦いでもね、いろんなアクシデントでね、毎回すごいピンチになるのよ。カラータイマー点滅しないで帰ったことなんか、ほとんどないよ。」
「うむ、確かに落とし穴はどこにでも転がってる。インフルエンザとか、骨折とか、食あたりとか、敵の罠とか。」メフィラス星人が言葉をつなぐ。
「敵ってなによ敵って。でも、たしかにインフルとか怖いな。気をつけよう。」
「そうそう、気をつけてね。」
「ところでさあ、みんな。僕と遊んでて楽しい?」
怪獣たちが一斉にざわつく。
「どうしたの明弘くん、初めて聞いた言葉だよ。」そうそうと頷く声。
「僕ね、今日ね、千住歓走会のみなさんに助けてもらって走ったんだけどね、なんとなく僕がみんなのおもちゃになってるって感じたの。それがすごくいやって感じじゃないんだけど、おもちゃの僕はみんなに逆らえないっていう感じ。今日の僕はみんなと同じ立場だったってことなんだな。会のおじさんおばさんにとって僕はおもちゃ、そんで僕にとって君たちがおもちゃ。改めておもちゃの気持ちってどうなんだろうってね。」
「うーん、深いなあ。」ドドンゴがつぶやく。
「おもちゃの気持ちねえ···」バルタンも言葉につまる。
「ちょっと、これはすぐには解決できない問題かも。とりあえず僕たちの次の総会で議題にしてみるよ。」セブンが言った。
「怪獣も総会なんてしてるんだ。」
「僕たちだってより良い怪獣関係と生活の向上に向けて会議くらいしてるよ。」
「君たちも、僕の知らない世界を持ってるんだね。」
「がっかりした?」
「ううん、安心した。僕だって24時間君たちと一緒じゃないしね。」
「そうそう、人と怪獣の関係も適度な距離が必要ってこと。」
(つづく)


いいなと思ったら応援しよう!

舟山義広 チップをいただけるレベルではございませんが、応援いただけると舞い上がります!