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小説:フルマラソンを5時間で走る約束をしてしまった(7)

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第3章の2


 徹也はほんとにいいやつだ。
 ポルトガル料理屋の夜、力のない声で「グッジョブ」と僕に親指を立てた徹也もどうやら立ち直り、「失恋もひとつの経験。以上。」と宣言し何事もなかったかのように仕事をこなしている。
「明弘、あのマラソンの話には笑っちゃったな。で、練習始めてる?」
ランチにやってきた食堂で大盛りのナポリタンを頬張りながら徹也が聞く。くちびるがオレンジ色でも徹也は爽やかだ。
「うん、晩に走ることにした。それから近所のランニングの会に入会した。」
「昼も走っちゃう?付き合うよ。」
「さすがにそれはいいよ。午後の仕事できなくなっちゃいそうだし。」
「じゃあ、週末にテニスしよう。テニスもけっこう体力つくよ。」
「土曜日はランニングクラブで走るからいいよ。」
「じゃ、日曜日は?こうなったら明弘のために頑張っちゃうから。」
「でも、テニスよりランニングしてる方がいいんじゃない?」
「明弘な、お前飽きもしないでずーっとランニングしてられる?いろんなスポーツで体を作っていった方が続くんでないの?それに、本気でテニスやってる人ってだいたい走れるよ。足首のグリップ力とか、バランス取るための体幹とか、ぜったいマラソンに生きるって。」
徹也の好意を無下に断る理由もなく、僕はテニスを始めた。

 それにしても徹也はこっちの予想というか期待を裏切らない男だ。テニスコートは徹也の家の中にあり、それもオールウェザー仕様だ。いったい何をどう勘違いすれば自宅にテニスコートを作るのか見当もつかないが、徹也の家ではこれが普通らしい。徹也は基本的な打ち方よりも「とにかく追いつけー!」とボールを前後左右に散らしてくる。10分足らずで息が上がり「ちょっと休みたい。」と言うと、「5時間で走るんだろ?玲子さんと結婚するんだろ?5時間テニス続けたら走るくらい屁でもないわ。」と根拠はないが自信満々に攻め立てる。「よーし、10本連続でラケットに触ったら休憩だ。」きれいに日焼けした顔から白い歯がキラリと光り、相変わらず清々しい笑顔を撒き散らして鬼のような打球を打ち込んでくる。くそっ、8球目で抜かれた。暑い。水飲みたい。1球目、触った。2球目、うわー前だ。3球目、今度は後ろにロブ。目が霞む。7球目あたりから打球はどんどん速くなる。9球目、横っ跳びに手を伸ばしてなんとか触った。10球目、反対側にスマッシュ。まるで届かない。また1からかよ。こいつ絶対人格に障害がある。
 地獄のような折檻、いや練習が終わるとシャワーを浴びてお昼をごちそうになる。
「ママ、こいつ明弘。唯一僕を敗北させたすごいヤツ。」
「ああ、てつくんの恋敵だった子ね、どうもありがとうね。この子少し天狗になってるから、誰かが懲らしめてやって良かったのよ。これからも仲良くして下さいな。」
息子も息子なら母親も母親だ。なんて爽やかでいい人なんだ。基本的に「··すぎる」という言葉は美しすぎる玲子さんにしか使いたくないが、ここでは「いい人すぎる」と敢えて言いたい。

 オレンジ率いる「千住歓走会」の練習も毎週続いている。土曜日の8時半になると会の誰かがアパートの前で「あっきぃひっろぉくぅーん。はーしりーまーしょっ!」と叫ぶのだ。僕の結婚が会全体の目標となった今、僕を休ませないように当番を決めているらしい。有難いことではあるが、あまり大声を出されるのも恥ずかしいので8時半の少し前には準備を整えて待つ。今日は最年長のたけさんが迎えに来た。たけさんは汐入公園のすぐそばに住んでいるから僕の家まで3キロ走り、僕と一緒にまた3キロ自分の家に向かって走ることになる。「たけさん、大変じゃないですか?迎えに来てくれなくても、僕ちゃんと行きますよ。」と言うが「孫を迎えに行って一緒に遊ぶって感じで、これがいいのよ。ジジイの楽しみを奪わんでくれ。」と言われたら受け入れるしかない。たけさんと二人で南千住駅を目指して走る。歓走会のメンバーにとって僕の結婚問題は格好のネタで、いろんな所で話題にしてるらしい。そりゃそうだ。「結婚の条件が彼女の父親のマラソン記録を破ること。」なんて漫画みたいな設定で、しかもその当人が街中を走っていれば、僕だってそいつを指差して「ほら、あの子だよあの子。」と近くの人に語るだろう。汐入公園では「千住歓走会」のメンバーだけでなく、多くの市民ランナーからも「頑張れー!」と声をかけられ落ち着いて走れない。でも、なぜだか疲れを感じないところを見ると、声援というのはかなり効果があるんだなと改めて思う。Jリーグでホームチームが有利ってのも今なら実感できる。スポーツって自分が思うよりも気持ちに左右されるものなのかもしれない。
 オレンジは時々僕のそばに来ては「腰曲がってる。」「肘もっと後ろに振ってみ。」「背中で走れ。」「お前の守護神が腰を押してるのを感じろ。」と、具体的な指示と宗教的な啓示をごちゃまぜにして投げつける。僕は「はい。」と素直に答えたり「わっかんねー。」と叫んだりしながら走る。僕の守護神は誰だろう。4畳半で待ってる誰かだろうか。それともご先祖様の類いだろうか。5年前に死んだばあちゃんだったら押す力がなさそうだなどと想像して走る。なんか神がかってる話だが最近走っていて自分の感覚が研ぎ澄まされてきたのも事実だ。後ろから近づく足音と息遣いで誰なのかわかるようになった。じいさんばあさん一人一人に固有の音と匂いがあり、目をつぶっても誰なのかわかるのだ。俺は犬か。そう、犬化してるならそれはそれでいい。坂下明弘は野生に帰って走力もアップしていくのだ。
 突然「ワォォォォーン!」と吠えてダッシュした僕に追いつくと、オレンジは「明弘、明日会社休んで医者に行け。」と真顔で言った。

 そんな毎日を繰り返し、いつの間にか7月になった。いよいよ京都マラソンのエントリーが始まる。ここで僕はとんでもないことに気がついた。もし、抽選に漏れたらどうなるのかということだ。
恐る恐る玲子さんに電話をしてみる。
「玲子さん、京都マラソンのエントリーって抽選あるよね。」
「そうね、だいたい5倍くらいだって聞いたわ。うちのお父さん毎年エントリーしてるけど、あまり当たってないし。」
「もし外れたらどうすればいいか、お父さんに聞いてもらえる?」
「ちょっと待って。」
おとうさあぁぁんと呼ぶ声がスマホの向こう側で小さく響き、僕の緊張は高まる。少し間をおいてごそごそ何やらノイズがしたと思ったら、「こんにちは。」とお父さんの声がして、400キロ離れた場所で僕は跳び上がった。
「こっこんにちはお父さん、実は相談というか確認したいことがありまして。」
「抽選のことだって?そんなん知るか。契約に抽選の項目はないんだからシンプルに京都マラソンで記録が出せるか否かしかワシは興味ない。」
「でも、抽選外れたら走れないじゃないですか。」
「それも運だな。健闘と幸運を祈ってるよ。んじゃ。」
プープープーを聞きながら目の前が真っ暗になった。
 いや、何か方法がないか。同じ名前で50人分くらい申し込んでやるか。それとも友達に頼んで誰か当選したらその名前で走っちゃおうか。いや、あのくそ親父は「本当に君が走ったという証拠がない。」とか言い出しかねない。もう一度募集要項をよく見るんだ。
ん?「ふるさと納税特別枠」?なんじゃこれは。十万円!?じゅうまんえん?これ出すと抽選なしで先着順?なにこれ。
「京都市スポーツ振興基金に10万円以上の寄付をされた方に無抽選で出走できる特典をお渡しします(別途参加料が必要)。先着800名、11月22日まで。」
これだ、これに申し込むしかない。おそらく一般の申し込みで落選した人の救済措置でもあるのだろう。でも、抽選に漏れてこっちの先着順にも漏れたら話にならない。十万円に参加料の1万5千円。4畳半に新しい仲間が30体くらい入る金額だが、今は金に糸目はつけられない。

 エントリー受付初日の7月19日、僕は会社を休んでパソコンの前に陣取った。開始時間の10時ちょうど、「ふるさと納税特別枠」の申し込みをした。一通りの内容を打ち込み、確認画面を凝視する。「まだエントリーは完了していません」の画面を見ながら、呼吸が速くなる。42キロを苦しんで走る権利を10万円で購入するのだ。渋谷のスクランブル交差点に集う若者に「おい、42キロ苦しんで走らせてやるから10万円よこせ。」なんて言ったら、その場でもっと苦しい目に遭って財布ごと持っていかれるかもしれない。それくらいひどい条件の契約を僕はするのだ。震える右手を左手で支え、「エントリー」と赤く点滅するマークにカーソルを合わせ、クリック。
「エントリーを受け付けました。先着順に処理をし、参加の可否をメールでお知らせします。」
という表示を見ながら、もしもこの瞬間に800人を超えるランナーが特別枠で申し込んだらどうしようか、メールで「残念ながら定員に達しました。」なんて文字が見えたら気絶するかも、なんて悪い方悪い方へと気持ちが傾く。そんな不安なひとときに決着をつけるメールがすぐにやってきた。「京都マラソンエントリーのお知らせ」という題名だ。ドキドキしてメールを開くと「エントリーを受け付けました。」という文字が見えた。しかも申し込み番号は3番だ。僕よりも大変なランナーは2人しかいないようだ。
「京都マラソン、エントリー完了しました」とLINEで玲子さんに報告。おそらく仕事をしている玲子さんからすぐに返事がくるわけないと油断してたら、すぐに「クマさんバンザイ」のイラストが飛び込んできた。玲子さんは有料スタンプなんか使わないのだ。いつもLINE規定キャラであるクマさんとウサギさんを使って送信する。偉大なる安定感だ。
「ふるさと納税枠?」続いて文字が飛んで来た。
「もちろんですとも!」
「ごめんねー」
「いえ、今後の人生を考えれば安いもんです」
「頑張ってね!!!!」
「はい、今日は会社休みました。今から走ってきます。」
 外に出てスタート。油断するなよ昭弘、エントリーしたらもう5時間で走りきった気でいるぞ。ここからだぞ明弘、とにかくトレーニングだ。でも今日はどこまでも走っていけそうだ。生ぬるい潮の香りが頬をなでる。僕は汐入公園を通り過ぎて、その先に見えるスカイツリーをゴールに設定した。
(4章につづく)


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