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福山雅治「想望」の何が問題なのか? 「特攻のラブソング化」がはらむ危うさ

映画『あの花が咲く丘で、君にまた出会えたら。』に関連して、主題歌の「想望」について批判的なポストをしたら、福山雅治ファンから激烈な怒りのリプライをいただいた。

私も「平和の大切さ」を訴えるからこそ「想望」を批判しているのだが……(だいたい、私の親族が戦争で亡くなってる可能性とか考えないんですかね?)。

それに、この「想望」についての問題点を指摘しているのは私だけではない。

特攻映画の主題歌として「帰らぬ旅へ征かなくちゃ 永遠の旅へ」「止めないで僕が決めたこの道」「僕ら大河のただ一粒」なんて歌詞、説明不要で完全にアウト……って思うのだが、一応説明する。

歌詞の全文はこちら。

まず、「止めないで僕が決めたこの道」。特攻隊員が「自らの意思」で出撃を決めたかのように読める。

これは史実と乖離している。実際の特攻隊は、上官の命令や、当時の軍隊特有の同調圧力、あるいは「非国民」と見なされることへの恐怖など、個人の意思だけでは抗いがたい状況下で出撃を命じられた者が多数だった。

志願した者の中にも、周囲の期待や雰囲気に流されてやむなく志願した者もいた。

このNHKの記事、あえてタイトルを「僕は特攻を二度『熱望』した」としているが、その「熱望」は、意思に反したものだったと語られている。

「これで書かなかったら顔向けできないので、『熱望』に丸をした。みんな勇ましいことを言うけど、死が怖くて、内心は私も特攻隊に選ばれたくはなかった」

「あのとき私は特攻を『熱望』した」

したがって、「僕が決めたこの道」という表現は、多くの特攻隊員の実情とは異なる。注釈なしに使っていい表現ではない。

僕ら大河のただ一粒」というフレーズには、全体主義的な薫りが色濃く漂う。

戦時中には、「悠久の大義に生きる」といった表現が盛んに使われた。これは「永遠に続く国家や民族の発展のために命を捧げる」ことを意味する。個人の命が消え去っても、国家や民族という大きな存在は永遠に続いていく、そのために死ぬことは崇高な行為であるという思想を国民に植え付けるフレーズだ。

あるいは、『あの花が咲く丘で…』でも歌われた「同期の桜」には、「咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」という歌詞がある。

個人の一生や幸福よりも、国家という全体を優先する考え方が根底にある。個人の死は、国家という「大義」を達成するための手段とされた。そして、玉砕や特攻など、本来は悲惨な死を美化することで、国民に死への恐怖を克服させ、戦争への協力を促す役割を果たした。

「僕ら大河のただ一粒」という歌詞も、国家や民族という「大河」と、個人の存在という「ただ一粒」とを対比した、全体主義的な表現とみなされても仕方ないだろう。

「想望」は、恋愛と死というテーマを通して、特攻隊員の心情を描こうとしていると理解できる。しかし、その歌詞は、特攻隊員が直面した「個人の自由意志の喪失」や「全体主義的な価値観の強制」といった、歴史の暗い側面を十分に反映しているとは言えない。

この曲の歌詞は、そうした歴史的背景を捨象し、個人の「美学」をドラマチックに描くことに終始していると言わざるをえない。

私は、「特攻の自己啓発的受容」について繰り返し取り上げてきたが、極めて複雑な題材である「特攻」は、単純化することでいかようにも「利用」できてしまう

自己啓発ビジネスにも利用されるし、政治的にも利用される。そのとき、「特攻」の一側面だけが強調され、ほかの要素は切り捨てられる。その危険性は強調してもしすぎることはない。

福山雅治は『あの花が咲く丘で…』の原作小説を何度も読み込んで、この歌詞を書いたそうだ。

しかしながら原作小説では、主人公が恋する特攻隊員の彰は、人格者だがガッツリ軍国主義に染まっているという設定。その背景があったうえで、自ら特攻を志願したという描写になっている(ちなみに、映画版では彰の軍国青年っぷりが薄められたために、作品のバランスが大きく崩れている)。

しかも、彰の仲間の1人は、「まだ死にたくない」と言って、特攻から逃れるために脱走する。

色々とツッコミどころの多いこの原作小説でさえ、「特攻は志願だった」という神話を否定する要素を入れているのに、「想望」には反映されていない。

「想望」は彰の心情を描いた歌詞だから仕方ないでしょ! という反論もあるかもしれないが、当然、映画と切り離されて歌われる場面もあるわけで(実際、紅白ではそうだった)、あまりにも不用意だろう。

また、「想望」は原作小説にある、彰目線の「エピローグ」を代替するものとして作られているが、エピローグの極めて重要な要素が反映されていない(ネタバレになるので詳細についてはこの記事を参照)。

この要素がカットされたことで、映画版『あの花が咲く丘で…』は、「反戦」のメッセージが原作小説から大きく後退してしまった。

福山雅治は「長崎県で生まれ育ち、幼少期から戦争や原爆など祖父母の体験を聞いてきた」といい、平和を願うメッセージを長年、発信してきた。その姿勢には、私も心から尊敬する。

だからこそ、平和を訴える歌手として、「想望」の歌詞、これでいいんですか? と問いたい。

福山雅治自身に、軍国主義的な思想や、歴史修正主義的な考えがあるとはまったく思わない。ただ、ラブストーリーとしての映画の感動をドラマチックに盛り上げる曲を作っただけだろう。しかしながら、その結果として非常に問題の多い歌詞になっていることは否定しがたい。

「想望」は、2023年の紅白歌合戦で、白組のトリで歌われた。前年からロシアによるウクライナ侵攻が続いていた。この年の10月にはイスラエルのガザ攻撃が始まり、年末までに死者は2万人を超えた。

歌唱前のVTRではウクライナやガザの映像が流れ、福山雅治は「平和への祈り」を込めて「想望」を歌う、という流れだった。私はこれに違和感を禁じえなかったが、同じ感想を持った人は少なくない。

私は中学生のころから20年来のサザンオールスターズのファンだが、百田尚樹(というレイシストでミソジニストで歴史修正主義者)が原作の『永遠の0』の主題歌をサザンが担当したときは心底ガッカリしたし、サザン史上最大の汚点だと考えている。「蛍」も、批判に値する曲だと思う。

(映画としては、自己犠牲の美化が色濃い『永遠の0』に比べれば、『あの花が咲く丘で…』はマシだと思う。それにしてもアミューズは特攻映画が好きだね……)

ファンだからといって、そのアーティストのすべてを愛し、全肯定する必要はない。むしろ、批判的な目線を持っているほうが健全で当たり前だろう。福山雅治ファンの人にこそ、今一度「想望」がもたらす負の影響について考えてもらいたい。

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