高市さん、『あの花』の百合を見習ってください──実は"ゴリゴリ個人主義"な特攻ラノベの「真のメッセージ」
自民党総裁選に出馬した高市早苗さんが、昨年に続き映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』に言及したことについて、この記事に書きました。
高市さんが用いた「私たちが生きてる今、それは誰かが命がけで守ろうとした未来だった」「その誰かが守ってくれた未来を今私たちは生きてます」という文言は、映画には一切存在しません。
原作小説にはほぼ同じ文言がありますが、映画ではカットされているのです。
特攻作戦は、対米戦争の劣勢が決定的になってから実施され、しかも早々に米軍に対策されたため戦果は乏しかった。特攻隊が日本を守ったかのような表現は歴史認識として問題があります。
それが、映画ではカットされた理由ではないかと推測されます。ましてやそんな表現を総理大臣になろうとする人間が使うべき言葉ではありません。
小説『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』には、為政者が引用するべきフレーズがもっとほかにあります。
これらこそ、総理大臣を目指す人が大切にすべき言葉です。
「ほかの誰かを救うためなら、誰かが死んでも構わないの? 誰かを救うためなら、自分の命を失ってもいいの? ……そんなの、おかしいよ」
「馬鹿だよ。特攻を命令した偉い人も、それに従ってる人たちも、みんな馬鹿。やめればいいのに。逃げちゃえばいいのに」
私にはどうしても理解できなかった。
特攻隊に志願した、彰たちの気持ちも。
自分の命を『国のため』に犠牲にしなければならないことを、『仕方がない』で済ますどころか、誇らしいとさえ考えているらしい彼らの気持ちが、理解できなかった。
死にたくないんだ。当たり前だ。誰だって、死にたくなんかない。
空襲から必死で逃れようとした町の人たちも、特攻隊の人たちも、おんなじだ。だって、人間だから。自分の意志とは関係なしに命を奪われてもいい人なんて、いるわけない。
誰にだって、自分の意志で生きる権利があるのに。
誰にだって、生きたいと願う権利があるのに。
この時代では、そんな当然の権利も認められていないんだ。
「生き恥なんて言葉、使わないで! 生きたいって思う人を否定する権利なんて、誰にもない! 生きようとする人を止める権利なんて、誰にもない!」
――諦めてもいいんだよ、彰。
自分の命を捨てることなんて、やめてもいいんだよ。
特攻を諦めたことを責める人なんかいない。もしも責める人がいたとしたら、その人が間違っている。彰が特攻を諦めても、日本は終わったりなんかしない。戦争に敗けても、日本は終わったりなんかしない。
これらはすべて、主人公の百合のセリフもしくはモノローグです。
原作小説における百合は、ゴリゴリの個人主義者であり、確固たる人権意識を持っており、紛れもなく反戦平和主義者なのです。
百合は靖国神社についても、「馬鹿みたい」と言っています。特攻隊員たちが「同期の桜」を歌ったあとのモノローグです。
この歌は、特攻で死んだら、その神社の桜の花になって、そこで再会しようというのだ。
ほんと、馬鹿みたい。
死んじゃったら、もう会えないんだよ……。
落ちこぼれの中学生(映画では高校生)のはずなのに、やけに人権意識が高く、弁が立つ百合。
なぜこうなったのか。作者の汐見夏衛さんがあとがきで明かしています。百合は汐見さんを投影したキャラクターだからです。
鹿児島県の片隅に生まれ育った私は、子供の頃、学校行事で「知覧特攻平和会館」を訪れました。あの時あの場所で受けた衝撃を言葉にすることは到底できません。
そこで最も強く感じたことは、『他人によって命を奪われることの不条理』です。自分の意志とは無関係に『死ぬこと』を強要された若者達がいたという事実は、幼い私にとっては信じられないほどに衝撃的で、あまりに愚かに思えました。
『他人の命を奪う権利は誰にもない』ということを伝えたい、と考えた時に思いついたのが、この小説を書くことでした。
平和な現代の日本に生きる私たちにとっては縁遠い『戦争』と、全ての人が経験する『恋愛』を結びつけた物語ならばきっと、大切な人の命を奪われることの悲痛を、自分に寄せて考えるきっかけになるのではないかと思ったのです。
そして、そのような不条理に対する私の思いを代弁してくれる存在として、百合という少女を作りあげました。
作者の汐見さんが伝えたかったことは「戦争の不条理」です。単なる死ではなく、「死ぬことを強要されること」の不条理です。
「他人によって命を奪われることの不条理」、そして「他人の命を奪う権利は誰にもない」ということ。
これこそが、この小説のメッセージです。
高市さんが引用した「あなたたちが守ってくれた未来」「あなたたちが命を懸けて守った未来」といった文言は、特攻が日本を守ったかのような表現で、誤った歴史認識に基づいた問題のある表現です。ただ、それはこの小説の一部にすぎません。
特攻をテーマの小説には、戦前の価値観を肯定する復古主義的なものもありますが、この小説はそうではありません。
高市さん、もう一度ちゃんと『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を読み直してください。
この『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』という作品は、リベラル/左派からも非常に誤解されています。
ただの特攻ポルノかと思っていました。
— えにわん@えにうぇあ (@dococa_dareca) September 21, 2025
少なくとも原作は読んでみたくなりましたね。 https://t.co/ZZwiDL81aE
映画版は、右からも左からも批判されないように、波風を立てないように、注意深く(良くも悪くも薄味に)作られています。自己犠牲の美化という点でも、『永遠の0』よりは抑制的です。
原作小説と比較すると、映画はかなり残念な改変をしています。原作はあくまで、「戦争の理不尽さを伝えるためにラブストーリーを用いる」というつくりですが、映画版は「ラブストーリーで泣かせるために特攻を用いる」という主従関係になってしまっています。
映画の感想で、「主人公の百合にイライラする」という感想をよく見ますが、実は原作小説では映画の3倍くらいキレています。
なぜなら、百合が恋する特攻隊員・彰は、映画と違い原作では、「ものすごく人格者だが、軍国主義にはガッツリ染まっている」という設定だから。怒る理由があって怒っているのです。
高市さんは、むしろ百合に叱られる側じゃないですか?
先の大戦について、「反省なんかしておりません」と言い切っていましたが、その考えは今も変わっていないのでしょうか?
【#高市早苗氏の歴史認識】
— 高文研 (@koubunken) September 28, 2021
1995年の国会決議について、河野洋平外務大臣とのやりとりからの抜粋
「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」
(1995年3月16日・衆院外務委員会) pic.twitter.com/sg4JnJLjVF
また、高市さんが生活保護バッシングの先頭に立っていたのは有名な話です。
「さもしい顔して貰えるものは貰おうとか弱者のフリをして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまいます」(高市早苗議員)――何度言うけれど、こんな発言をした議員が総裁や首相になる可能性が見え隠れする社会状況、とても危うい。 https://t.co/p28RbRQhqv
— 安田菜津紀 Dialogue for People (@NatsukiYasuda) August 18, 2025
生活保護は、生存権を保証するもの。それを否定するのは、まさに「生きたいって思う人を否定する」ことでは?
「生きようとする人を止める権利なんて、誰にもない!」
百合はそう言っています。
なお、安倍政権下の生活保護費の引き下げは、今年6月、最高裁で違憲と判断されました。
高市さんは、外国人が奈良の鹿を蹴っているという根拠不明の情報を拡散し、外国人への偏見を助長しています。
百合はこう言っています。
この時代のみんなに教えてあげたい。
七十年後には、日本人とアメリカ人が互いの国に旅行したり留学したりしているということ。
日本人とアメリカ人が結婚することだって、珍しくもなんともない。
日本人はしょっちゅうハンバーガーやホットドッグを食べるし、パンケーキの店には行列ができている。
日本のアニメが大好きなアメリカ人もたくさんいて、インターネット上で友達になったりもする。
もしかしたら、今殺し合っている相手の子供や孫が、それほど遠くない未来で、友達や恋人や家族になっているかもしれないのだ。
日本人もアメリカ人も、どんな国の人も、国籍に関係なく共生する世界。
それこそが、「守るべき未来」ではないのですか?
高市さん、『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』をちゃんと読んで、百合を見習ってください。
「特攻」や、『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』に関して書いた記事はこちらのマガジンにまとめています。
