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自由という単語から想起される言葉の違いから生まれる社会問題

以前別の記事の一部として書いたことですが、長いので抜粋し、ついでに、NoteBookMLに画像を作ってもらいました。
特にNoteBookMLの音声が秀逸です。プロに頼んだみたいです。
ポッドキャストにでも置いとこうかな。ちゃんと理解して構造を組み替えて書いてないことまで話してくる。怖いくらいです。

結論を言えばこれは「日本でいう自由と、西洋哲学の本で読む自由の意味がどうも違いそうだ」という指摘です。「この違いを放置したまま、その文脈を受け継いだ西洋社会学や哲学や心理学を実行した資本主義をやっても滅んでしまうよ」と言うためにこの話を語りました。しかし、この話は他のことを説明するのにも便利だったので、ここだけ語りたい時にコピペしやすいように逃がしておいたのです。

恐らくは、本来我々は自由になることで「ガッチガチの規則から解放され、柔軟に自主的に働くこと」を期待されていたのですが、

「自由になっても、我々がイメージする自由とは、責任のない自由でしかないので、ただできる人に要求するだけで、働かないでしまう」状況になります。あるいは働いても常に楽な仕事を選ぼうとします。

だから日本の資本主義はうまくいきません。

たぶん他の国の資本主義も『ゴリオ爺さん症候群』で滅びそうです。共産主義もそうかもしれません。でも他人の国のことをとやかく言うほど知らないので今回は口を閉じています。調べたら書きます。

また、ここに掲載した音声や動画や文章は自由にお使いください。

https://notebooklm.google.com/notebook/525808cb-0cf6-4403-b88f-6a16fb782cf9

ー自由という単語から想起することー

自由市場や自由という単語にも、日本と参考元の欧米諸国では異なった意味合いを持っているように思います。哲学をたしなむような日本人にとっては『自由の刑』という言葉が通用しますが、恐らくは、庶民的にとっては自由と言えば「楽で楽しい」という印象があるのではないでしょうか。

日本人にとっては多くの人が自由をこっちの意味だと思っていると思われます。海外ではわかりませんが、西洋哲学を知っている人はそうではないと思います。日本でもそうです。

chapter.1:安全な休みとしての自由

日本人にとっては「子どもが何も持たされずに外にほおりだされる厳しい自由」というよりは、「毎日決まったカリキュラムのある学校の何もしなくていい昼休みが自由」という感覚です。
あるいは、親や教師や国家が常に自分を守ってくれている前提で学んだり、一部作業を行っている間に存在する「休み」というケースです。これは学校の教師や親や国家に守られて、労働を頼まれて行う人間の感覚の休みです。

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休んでいいのかどうかは国家や学校が決めます。その間は守られた状態なので本当に何をする必要もなく、自分の責任でその間のんびりしていても、誰かに叱られたりしません。他人の責任で休んでいるので、場合によっては勝手に働くことを禁止されることもあります。ある意味奴隷根性が座った人の考える自由ですね。指示待ち人間とも言えます。

日本人の多くは社会人になると哲学を青臭いものだと言って捨てて忙しくなるので「自由の刑に服する」ということも知らない人も案外多いのかも知れません。どちらかと言うと、つまらない仕事ではなく夢のある仕事を目指しなおしたり、家族を支える責任から降りることを「自由」と呼ぶ人がやはり多いように見えます。つまり日本人にとっては自由は「楽になること」であり、「責任を果たすために凄く疲れること」ではないと思っている人の方が多いのです

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そんなわけですので、日本ではこの雇われ人的な自由が主流なので民衆が「自由」になっても、日本で提供するサービスは質が悪く高額になっていく一方なのです。

chapter.2:二つの自由:雇われ人と責任者

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■想起される自由の違いを区別して考える■

この守られた労働者の休み時間的な意味での自由は、便宜上「雇われ人の自由」と呼ぶことにしましょう。捕捉すれば、これは別に悪い意味ではありません。人に従うことが好きな性質も、自分で考える性質も、それぞれの良さがあります。しかし、混ぜて考えると悲劇をもたらします。
お互いの違いを理解しましょう。

逆に、責任があって疲れる自由を「責任ある自由」と呼びます。(※「雇われ人」の対比なら「事業主の自由」というべきかもしれませんが、孤独に死ぬ自由もあるので事業主とは言えないこともあるのでこうしました。
だったら「雇われ人の自由」を「学徒の自由」にした方が適切な気もしましたが、ここではネーミングの議論は割愛します)

「雇われ人の自由」とは反対に、奴隷や労働者や生徒や学生ではなく、
責任のある自由な人や、あるいは国家全体を動かす責任のある指導者、あるいはそれを委託され、やろうと思えば自己責任でたくさんの行動をとれる人の自由は異なるということです。

日本でも「自由の刑に服している」という哲学者の言葉は知名度が高いはずです。このような自由は、休むときは自分の責任でいくらでも休むことが可能ですが、何もしなかった時に責任をとってくれる人がいません。個人事業主に少し似ています。

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3DCG屋さんも個人事業主と正社員を交互に体験したりしていますが、
人によっては、逆に休めずにずっと仕事をしてしまって、無駄に疲れてしまいそうですね。そして本を読んでも読んでも読み終わらずまだ知らない科学や宇宙のことを知ると生きるためにすべての知恵を得て正解を選び続けることもかなりきつそうです。

おさらいするとこうです。

我々の生活が良くなって発展していくには、
「責任のある自由」を持っている人が先に行動し、彼等に雇われ人が不自由についていく必要があります
。残念ながら自分から行動しないで指示を待つ人は、雇用主が自由をくれるまでは不自由なわけです。(※聖書に従うなら強制的に安息日や安息年(ヨベルの年)やブライダル休暇(新婚さん丸一年休み)はありますが)

しかし日本ではその働きがありません。

■余談:西洋哲学と言語と聖書について

西洋哲学を語るうえで、聖書的な世界観からくる言語の定義は、切っても切れない関係です。簡単に自由や死や命や魂の話をすると、日本語で死や命の意味合いが異なることもあるので、本来はその定義の説明をしないと何を話しているか本来はわからないはずだからです。全然わからない俺たちは雰囲気で自然言語をやっている。

日本人は哲学者を「なんか一つの単語にすげえ時間をかけて説明するやつ」と思っているかも知れませんが、たぶん、その説明をするだけで時間が無くなっただけです。

仕方がありません。1781年くらいにカント先生が『純粋理性批判』を書いたあたりまで、みんなその間違いを悪用して物を語るので収拾がつかなかった可能性が高いです。フリーレンの魔族が話題ですが正直日本人の殆どは魔族みたいな状態で哲学を語っている人も多いのではないでしょうか。しかもお金が無くてキャバクラに来る女子大生に絡むために。

わかっている人にとっては「はいはい、またアプリオリね、定義大事だよね、はいはい」と言う感じだと思うので読み飛ばしていただければよいと思いますが、話を元に戻すと、聖書的な意味での自由とは「自滅して死ぬ自由は自由とは呼ばない」ということです。

そのため西洋には「神様に支配されているが自由」と言う日本人には納得いかない文章が存在します。しかし、これは矛盾しているわけではありません。これには深いわけがあります。

chapter.3:『聖書的には死につながる自由は自由ではない扱い』

あえて日本人的な思想で、日本人らしい言葉で言えば
知恵が無ければ自由ではないが、知恵によって自滅する」とも言えます

■ベビーベットの柵がある自由

例えば、人間の赤ちゃんは高いベッドから転がり落ちたり歩いて転んだりして死んだり怪我をしたりしてしまうことがありますが、大人はベッドから落ちても骨も丈夫で背が高いのでダメージが少なかったり、あるいはベッドから落ちないように気を付けたり、落ちると痛いという知識を持つことができます。その頃にはベビーベットの柵は取り払われるでしょう。

平たく言えば、死なないで自由をつかむには、「人を自由にしてくれるが、死なないように支配してくださる方に頼るしかない」のだ、という人類の無知を認めるべきであるという話です。
しかし知恵がないのでその人が本当にそれをしてくださる方そのものを理解できません。
困ったものです。祈るしかありません。一応、わかるように祈っておきました。

また子供は歩いて転ぶとどうしていいかわからずに泣いて親を呼びますので、親がいない時は対処できないから柵のあるベビーベッドにおきます。
しかし、大人は自分で消毒して絆創膏を張れるようになっていれば、怪我による破傷風で死ぬことを防ぐことができますので、大人でも転ぶことはあっても、自由に歩いても平気です。

(※余談ですが、怪我自体を防ぐことも大事ですが、大人でも間違って転んだりします。大人だから転ばないわけではなく、転んでも対処できるから自由になる許可をもらうケースもあります。転んでも治療できればOKということです。まだ子供の皆さんは「大人なら転ばないはずだ」と言って、ちょっと間違った大人を馬鹿にする人がいますが、彼は自分で対処できるから自由なので、いちいち本質とは違うことを突っ込まないであげてください。せめて「○○は間違っていませんか?」と聞くぐらいにしてください)

このように自由になるには知恵や力が必要になってきます。
力によって自分を殺すことができるようになるころには、自傷行為をしないことを学びます。(※自傷行為とはリストカットだけではなく、例えば依存性の高い嗜好品や薬物や偽りや欺瞞に満ちた人間関係や、よく考えると根拠のない言論などにハマってしまい、現実逃避をすることなども含むかも知れません。もしくは、持続可能性が低い社会での高い地位の維持によって他の誰かを犠牲にすることも自分自身の姿を見ることができず物事を解決できる勇気を失った故に起こる現実逃避をし続ける自傷行為の一種かも知れません)これは現代日本の大人も時々できていない問題です。このように我々は、聖書の神様にとっては、「人類とはまだまだ心が傷つくと自暴自棄になり破滅願望を抱いて永遠の命があっても自殺してしまうような危険な子供や患者みたいなもの」なので、全部の自由はまだもらえません。

我々は肉体が大人でもまだ子供で危険だからです。

神様は聖書の言葉や祈りを通して、死なない方法を教えてくださり、また忠実で安全な者には力をお与えになることもあります。(※因みにその力をちゃんと役に立てない場合は没収されることがあるそうです(タラントンの例えやムナの例えで検索してください)

そうなると自由度が増えていきますが、段階を踏まなければいけません。
恐らく、聖書の創世記に書かれたアダムとイブが蛇に唆されて食べた禁断の実とは、たぶん、酒みたいなもので、早い段階で食べたりすると子供は脳障害を起こし、あるいはアレルギーがある人は生涯食べない方が良い代物だったように思います。

■余談:神学的な話

ここから書く話はより神学的な話になるので、興味がない人は読み飛ばして次の目次に飛ぶといいかも知れません。

日本では死ぬ自由があることも自由ととらえますが、
聖書圏では、恐らくは無知によって放任していた未熟な子供などが死ぬことは自由に含みません

聖書の自由とは、自分が全知全能になって永遠に死なないときにも自由になれる自由です(※この一文は、日本人には支離滅裂な思考言動に聞こえるかもしれません。あるいは、文字としては理解できても、「そんなあるかどうかもわからないものを提示されても困る。ましてやそれを欲しいという動機に毎週日曜日に献金をせびろうと言ったって、俺は信じねえぞ、俺は現世利益の方が大事だ」と言われそうであることは重々理解しています)

この考えを捕捉すれば、
例えば、今、人類は、死のお陰である程度の苦難から自由になっています。

もし医学が発達して人が死ななくなった場合、
人々は無計画に子供を産むと世界の資源が足りなくなることで一定数の人々を何らかの基準で殺さねば全滅するという事態に陥ります。
考えただけで角が立ちそうな話です。
命欲しさに誰かに冤罪を着せる者も出てきそうです。

今のところは、神様が「今は魂が病気だが理解してあげればよい仕事をする息子たちを泣く泣く息を引き取らせるが如く」悲しみながら人類に死をもたらしてくださっていますが、これは我々の偽善の尻拭いをしていただいているとも言えます。

これが我々人間が自由になって全知全能を得るとしたら、こんどは自分の意思で誰かを殺さねばならなくなりえます。今まで神様に押し付けたことを自分の意思でそうしなければなくなります。自由と責任とはそういうことです。貴方の責任で選ばねばなりません。

選ばなかったらそれはそれで全人類を見殺しにしたことになるので、見殺しを選択したことになってしまいます。

中には、それで争う人々が醜過ぎて人類を嫌悪したり自殺したり一番重要な仕事をする人なのに生きていたくないという理由で死んだりするかも知れません。(※「2XXX年、我々は科学力と安全性を両立したが、魂の腐敗には耐えられなかった」と言うSFを書きたい人は是非ご自由に書いてください。因みに神様曰く「永遠の昔から過去にすでに起こった」そうなので、新しくないかも知れません

このように、人類はまだ何も知らない為、知恵や権能や権限が大きすぎると、逆に死にたくなってしまう人も多いのです。

(※本当はだいたい汚れ仕事を他の人がやっているから優しく見えるだけで、そういう慈悲深いことで有名な優しい天使の類を連れてきて権力者にすると、暫くすると狂暴化してジェノサイドしだす、という神話が残っています。セフィロトでいえば、カバラの「慈悲」である部分が、アッシャーに近づくほどネツァクのようにセクメトやイナンナなどと同一視されているアテネや金星に関わる戦神のような存在になって、関わる大アルカナも『死神』などの物騒な感じのものになるのもそういうことかもしれません。戦神が理不尽に凶暴なのではなく、慈悲の範疇で人を殺さざるを得ないということですね。つまり、皆さんが自業自得で神々を狂暴化させているのです。戦神がモテないのはどう考えてもお前らが悪い

今の人類は「どうせ死ぬからまあいいか」と思って気楽になれる側面があります。

しかし、これが

「残念ながら、皆さんは予想外に永遠に生きます。死ぬことはできません」

「死ぬと記憶を失った状態で、他の者のために働くように誘導され、知識がないのをいいことに洗脳教育を施されますので、怖くて死ねない人が殆どです」

「むしろ我々からするとお前程度の説明しても理解できないバカは死んでもらった方が仕事が早く済むし、どうせ俺たちが復活させて幸せにするんだから寝てもらった方が助かります。何でここまで苦労してるのに信じてくれないかな、もうさすがに切れていい?そもそもこいつら死んでたの俺が生き返らせてやったのに

「しかも記憶を失った貴方は、記憶を失って元々犯罪者だった人たちが自分は立派な英雄だと思い込んでいるのを見て、自分もそうみられている可能性を想像してして辛くなり、しかしそれが原因で死にたくなると記憶を消さされるので、周りにそれを悟られないように問題を起こさず仕事をして記憶を消さなくていいだけの徳を積まねばなりませんが、しかし、記憶がない状態で人間をやった皆さんは悪いことばかりしました。あなたは今は平和に生きていますがおぜん立てされているだけで、貴方に禍根を残している人は貴方の様なバカではなく根元から賢くなりやすい立派な善人が多かったので、寧ろ、天においては貴方の方が借金が滅茶苦茶多いです。無理せず寝てくれやしませんかね、あっちは仕事柄、忘れさせても直ぐに気が付くのでほぼほぼ記憶付きでずっと恨んでいますし、この次の時代では貴方がひどい目にあわせた人の方が重要なスキルがあると見なされて金持ちになるんですがいつまでお前らに我慢しないといけないんですかね、びっくりして泣いちゃうといけないから黙ってたけど、私、結構酷いこともできる偉い霊なんだけどなぁ。そろそろ大人の立ち振る舞いや礼儀を弁えてくれないかなぁ。あとで平謝りするのもめんどくせえんだよお前ら。仮想空間だからと言ってやっていいことと悪いことがあるだろ、姉さんお前のせいで永遠に生きられるのに心労が祟って疲れて死んじゃったぞ

ということになれば、

永遠に生きられるのに「もういい、死にたい」と言い出す人も多いでしょう。まあその状態の世界の死と我々の肉体のある死の意味そのものを理解することそのものもそれなりに大変かもしれません。

まあ、どうせ日本人が興味が一切ない神学的なことを端折って一言で言えば、あえて日本人的な思想で、日本人らしい言葉で言えば「知恵が無ければ自由ではないが、知恵によって自滅する」とも言えます。

仮に、自分が全知全能になった時も無知で死ぬことを自由だと思わない場合はそうです。

しかし、本当は多少の知恵があったところで人間程度の全知では無い知恵では自由だという話も、これはこれで高慢である可能性はあります。

神様を信じていない人にとっても、貴方が全知全能ではないことはわかっていると思いますから、仮でもいいので全知全能の存在を想像してみてください。多分、ザックリとはイメージできても具体的には想像ができないと思います。

神様もそうですが、まず時空が存在しない天などから想像しないといけないので、物理的な話になりそうです。
物理学者も神様については多分わからないと思います。
その上で神様の考える自由とは何か想像することも難しい話です。
そもそも自由というものは、あるのでしょうか。神様曰く「あるけれど多少虚しいかも知れない」そうですが、科学的根拠はないので興味のない方は聞き逃してください。

この「知恵が無ければ自由ではないが、知恵によって自滅する」という仮説は、仮に、自分が全知全能になった時も無知で死ぬことを自由だと思わない場合はそうです。そうでない場合は違うかも知れません。
しかし、全ての知恵を知った全知全能の自分って、何を考えるのでしょうか。もしかしたら、どうしてもそこまで到達せず、途中で「知恵なんて要らない」と言うかも知れません。

自分が目指しているのは知恵なのか、幸せなのか?
幸せになるために知恵があると思うか?それとも幸せにならなくていいから知恵を求めるのか?

chapter.4:満足な豚の自由?不満足なソクラテスの不自由?家畜の不自由?賢者の自由?誰から見て自由であることが自由なのか

例えば、豚が毎日望み通りご飯を貰って、自分がそうとは気がつかないうちに幸せに安楽死したとしても、知恵によって自分がどうなるかわかってないで自由とは言えないという思想があります。しかしこれはまだ真理だとは確定していません。これはあくまで私がそう思うだけです。

故に、これは私だけの思想かもしれないので、人によってはこの豚は自由だとも言えます。聖書でも恐らくこれはこれで自由であると考えられていると思います。あるいは、もしかしたら、聖書を知る人の中でも、諸説あるのかも知れません。

豚と言ってしまえば、なんだか負けたような気がしますが、別にペットの犬猫でもいいのです。猫になりたい日本人は多いです。

しかし、猫もオスは野良で生きていても突然勝手に去勢され、人間が好きなときに殺処分されますし、遊びで殺されてしまうこともあります。鼠そのものを遮断する技術があれば後は人間の趣味で飼われるだけです。ヤマネコやライオンや虎を見ると、案外絶滅しやすく、あまり生き残りに強い生き物ではないのかも知れません。不味くて食べにくい笹を食べたり、寒くて住みにくい所に逃げて引きこもって雑食であるイヌ科の熊の方が数が多そうです。

自由の形とは、人によって違うということでしょう。
私も実は全部はよくわかってません。

しかし、私にとっては無知な状態は自由ではありません。どうしてそうなのかはわかりませんが、自由だと思いません。ただ、日本ではこの豚は自由なのです。恐らくは聖書でも自由です。しかし西洋哲学では何となく自由に見えないのように感じる人も多いのではないかと思います。

要するに、この話に関して言えば、まだ誰にとっての自由であるかが複雑なので、人の数だけ答えがあるか、あるいは、聖書が正しければ、人類は神に従う以外には必ず死ぬ為、「無知な人間にとっては自由そのものが神に従う以外存在しない」と書いていることになります。

(※無論、従うと言っても何も知らされないわけではないのです。知ると楽しむ者や死なない者が教わります。もしくは、もう知っても罪を犯さない従順さがあるか、あるいは知恵によってそれを避けないと危険だと理解しているか、もしくは鍛錬かあるいは意図せぬ過去の失敗からくる懲りによって、何らかの理由でその力や知恵をもって死なない者が教わります。
失敗すると最悪死ぬので、神様同伴で訓練した方がいいです。
よく、太宰治の小説のように「アウグスティヌス帝のように、散々遊んでから、その後罪を許されたい」と言う人がいますが、どうしてもというなら仕方ないのですが、正直を言えば、あまりお勧めはしません。理由は、後半に書いた(※注釈①)をご覧ください)

恐らくは、私がこれが無意識且つ非論理的に直感でなんか自由だと感じないっぽい理由は、いくらか聖書ではなく哲学で聞いた価値観が原因です。どちらかというと西洋的な「満足な豚より不満足なソクラテス」という格言の様なものを、無意識のうちに正しいと思ったのかも知れません。正しい根拠は特にないのにも関わらずそう思うのです。

これは多分、論理ではなく、美意識の問題なのだとは思います
恐らくは、西洋にも存在する概念で(※日本人であっても)それが自由ではないと思っている私の様な人もいるのだと思います。

ところでこの美意識があることは自由なのでしょうか?
それともこの美意識を持つと不自由になり、美意識を捨てることこそが自由なのでしょうか?皆さんはどう思いますか?

別に、豚でも自由と言えば自由かも知れません。私は嫌ですが。

■自由の形は人によって違うので、真似しても自由になれない。

聖書の示す「自由な者」というのは、家畜の自由と賢者の自由の両方を含んでいます。ある意味で家畜の不自由だけではなく、賢者が陥る間違った方向へ進んで戻れなくなる不自由についてすら書いています。これはよく高慢の罪(偶像崇拝の罪)と呼ばれます。

しかしこれは聖書では賢者が悪いのだと書かれているというわけではなく、賢者になりえる者は選択肢が多いので間違う自由があるということです。
逆に、前半はどちらかと言えば臆病で、わからなくても取り合えずは従う者の方が、成績が良くなりやすいことも事実です。
その為、人類の前半は、先に「雇われ人の自由」を求める者が救われやすく、それがあまり好きではない人たちは恐らくは山羊と呼ばれて先に自分で考えて神から離れていったのかも知れません。

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自由の最適解は人によって異なるのです。そして我々人間にはよくわかりませんが、全知全能の神様にはよくわかっています。
(※まあ、ここは信じていない人は、そういう存在があると仮想してもらうしかありません。例えば、怪我をした動物を意味もなく謎の不可視の技術により寝てる間に治療したうえに、何故か暖かい寝床にずっとはおいてくれず、急に追い返されて野性に返される動物の気持ちに近いのでしょうか。…いえ、どっちかと言うとこれは宇宙人にさらわれて血を取り換えられて戻されたときの気分ですね…例えが難しいですね…全知全能じゃないから仕方ない)(※個人的に、私は『動物のお医者さん』のクルタンを思い出しました)

これを信じることに関しては今までは科学的根拠はなかったものの、
科学で調べた脳や肉体や性格の特性や哲学や心理学の側面から、
「人によって生きやすい状態や最適なキャリアデザインは違う」
ということに関する話は、いずれ証明されていくことでしょう。

そして「確かに私はこちらの方が向いていた」と証言する人も増えて証拠になっていき、寧ろ、今まで滅茶苦茶な組織維持や、向いていない人の役職の逆転をしていたことに気が付かなかった歴史を見て、

思い込みとはなんと恐ろしいものだ。この時期には○○という観点はなかったから仕方ないという者もいるが、私に言わせればまだ脳科学が完全ではないときに安易な判断をするなど、今の時代からしたらあり得ないことだ

と呆れかえっていても私は驚きません。

つまり雇われる者は神に従うことで本当の自由を得ます。これの解説は難しいかも知れませんが、自由の刑の辛さを知っている人は良い雇用主に雇われる方が楽であるという幸せを知っていると思います。

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一方で、考えたり知的好奇心が強い者は、その世界が最初は楽しくはないかも知れません。だから神様に色々聞きだします。
なお神様は良いことのために知恵を求める者を喜ばれるようで、誰にでも惜しみだてせず知恵を教えてくださると聖書にも書いています。信じてくれないとは思いますが、実際そうでした。私は理解力を与えられており、その特性を持っていました。しかし、理解力があっても、知恵を教えることで死んでしまうこともありますので場合によるようです。

(※余談ですが、実際、(偽典だという人もいるようですが、)ラテン語のエズラ記でもウリエルと言う天使が、「行って、炎の重さを量り、吹く風の大きさを計り、あるいは過ぎ去った日を取り戻して来なさい」という問いを一つでも答えられるまでは、なぜこんな酷いことが起こるのかをエズラ答えないという話が出てきます。理由としては、まずそれすら知らない人類に説明しても、まず理解できないからです。(※もし「偶像崇拝をすると国が都市国家化して少子化し環境破壊され必要な生産をする労働力が減って滅ぶという話」であれば、たぶん証明には統計学がないと厳しそうなので、原子力爆弾でどれくらいの規模の破壊力が産まれるのか計算する流体力学から始まって高度な計算機であるパーソナルコンピューターが発明されたので、ある意味少し解きかけているのかも知れませんね。まず一回死んでもらうか、社会が整って聞く準備ができないと難しすぎるのかも知れません)

同時に聖書には「知恵が増えれば悩みも増える」とも警告しています。それが何か人にはわかりません恐らく全知全能になることも可能なのにそうならないということは、神様はすべての知恵を順序悪く人が受けると死ぬことがあることをご存じなのでしょう。

だから無理に知恵を求めて神様や…あるいは、あなたを愛する人を困らせてはいけません。神を信じないにしても、もし貴方が他人より無知だという自覚があるなら、謙虚になった方が怪我は少ないはずです。

私と彼等とは、恐らくその自由の形もお互い違うので、私や彼らの自由の形を押し付けあうということは、恐らくは、お互いの不自由でした。

古文書や書物を読んで参考にするとき注意しなければならないのは、その人にとっては良い生き方であっても他人にとってはそうではないということです。

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chapter.5:謙虚に無知の不自由(死)を避けるためにどうすればいいのか?

実は、聖書では雇用主と奴隷の関係としては、「世の身分の高い人は神様が選んでそうしたので従いなさい」と書いています。実際、異邦人であった存在のキュロス王などがどんどんダメになってしまっていたイスラエルを助けたこともあるので、それは異邦人の王でもそうなのでしょう。

この身分が高いものは神が定めるだとか、適性は教会で祈りながら与えられるという形式は、日本人にとって受け入れがたいことかもしれません。
日本人は努力によって職業選択の自由があると考えます

しかし、ここまで読んでくれた人はわかってくれると信じたいのですが、
聖書を真剣に信じている人が多い地域においては「それは、自分勝手な決めつけで客観視できていないので、自分の価値観から自由になっていない為、素直に神や隣人の話を聞いていないわけであって、ある側面で不自由になりえる」という世界観が主流なわけです。

それは放置された赤ちゃんが絡まりそうなコードを無理に引っ張ってしまい、もっとごちゃごちゃと縛られるような感じです。

こういう時は、大人の人に手順を聞いて、順序だてて縄をほどかねば、自由になれません。あるいは赤ちゃんでなくても、自分の背中の結び目に関しては、他人からほどいてもらった方が楽に自由になれます。

その人にとっては、大人の人が何をしているかわからず、途中、少し紐を引っ張られて「窮屈だ、本当に自由にしてもらえるのか?いたずらされてもっと堅結びにされないだろうか」と不安になり、すごく不自由に感じても、いずれその人は最終的にはコードから解放されて自由になることができます。

日本人の状態はこういう状態です。自分自身を客観的に見ることができないので、自由に行動しているつもりで自由になれません

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赤ん坊に例えましたが、大人でもそうです。どんな賢者でも時間と興味によって特定の事しか見えていない可能性は高いのです。高台から遠くを見ている凡人は、下に座っている賢者とは違う情報を持っています。

(※余談ですが、相手が身分や学歴が低いし、自分のように特定の科学や歴史や経済や商売などを知らないからと言って、例えば牧師さんなどを見かけて、何も知らないとは思わない方が良いです(※注釈④

あるいは、高台ではなく、「灯台下暗し」という諺のように背中であれば他人にやってもらった方が楽なはずです。
貴方を急に攻撃して騙さない者だという信頼があれば、自分でほどくより「助けてほしい」と頼む方が楽ですよね。(※恥じることはありません。これは伝説であって事実じゃないという話はありますが、アイザック・ニュートン卿でも仔猫用の猫の抜け穴をつくろうとして「親猫の穴と共有でいいのではないか?」と職人に忠告されたことがあるそうです)

しかし、話はそんなに簡単ではありません。
多くの人が、コードをほどいてもらうにも、相手が親切な人かどうかわからないので、もっと縛ってほどくために脅したりお金をだまし取るのではないかと警戒しています。その為、牧師さんの多くがまず「あなたの神は貴方を愛しているから信じて(※注釈③)」と言います。コードのほどき方を説明しても余計ややこしいからです。まず言うとおりにしろということですね。ここは信じてもらうしかないのです。

しかし現実は「こんなに親切にするということは、きっとお金が目当てに違いない」と思われている可能性も非常に高いのです。悲しい話です。

信じてもらえないのもわかるのですが、実のところ、教会にいると、教会の才能を見抜くことが得意な誰かが「この人が○○向きだ」だとかを霊的に見定めて、ハリーポッターに出てくる組み分け帽子のように役割与えてアドバイスしてくれることがあります

これはまだ科学的根拠がないので説明しにくいのですが、あえて臆さずに言いましょう。たぶん、私の見たところ、「この天職…あるいは産まれた意味を知ることができないことが原因で、様々な悲劇が起こっているのは確か」です。

何故なら自分の適職そのものを社会が卑下しているからです。(※注釈②

ただ、これを日本で話すとまず「科学的根拠がないことで恣意的に人の自由を侵害する気であるか、キチガイの統合失調症だ」と言われるので、この話を私もしたくない気持ちです。

そのため、科学の時代だからこそ、私はあえてこういいます。
脳や肉体や性格に向き不向きがあり、それはゲノムの時点である程度定まる可能性が高いと思っています。

今まで証明できなかった雇われるべき者と雇うべき者の素質の違いは、今後は脳科学で立証されると考えます。

(性格と立場も起因するので血統だけがそれを決めるとは思いません。人が植物や動物を食べる時、同じゲノムの植物でも日の当たり具合や水の当たり具合や病気の度合いで治療が必要か他の人を助けるのに利用できるかを決めるように、人が神様や人に選ばれる時は他のやる気や自惚れなどの意思の要因もあるのです。努力が全く無関係とは言えません)

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それ故、「司祭や王族などの管理者や特別な知識を持つ君侯や預言者」と「日々を愛する労働者」が存在し、その役割分担は分かれていたのでしょうね。しかし神を信じない我々にはわからないことです。
人は努力によって平等だと誤認していました。これは例え善意ややる気のある献身や怠惰の対極にある熱心な努力であっても、あるいは謙虚さであったにしても「高慢」でありました。

■余談:高慢という単語も日本と聖書圏では意味合いが異なる

自由もそうですが、『高慢』という単語も日本人の思う印象と、聖書での意味が違う単語だろうなと思うのでせっかくなので追記します。自由という単語と多少関係もありますしね。

聖書における高慢というのは自分が人より優れていて自惚れているという日本のイメージに多少反している行動をとる人が多かったりします。
例えばバベルの塔では「他の地域に散らされるのが嫌で有名になっておこう」という理由で神の提案より自分の考えで行動しています。

どちらかというと自信がなさそうなのですね。

サウル王も部族長のサムエルに「高慢と反逆の罪」を指摘されてしまった王様ですが、彼も「自分は大したことがない」と感じているらしく王に定められたときも隠れてしまったりします。

聖書ではさらっと書かれていますがサムエルに「自分など何者でもない」と思っていそうなサウル王に「神に選ばれたものではないか」とたしなめられています。なんか聖書の中で高慢の罪を指摘される人の多くが「神様に愛されている自信がない」人が多かったりします。「(神が裁くので自分勝手には)自分を自分で裁くことさえしない」とも書いています。神様を差し置いて勝手に自己卑下をすることさえ高慢であるということですね。

https://notebooklm.google.com/notebook/525808cb-0cf6-4403-b88f-6a16fb782cf9

そして、日本はどちらかの自由だけを押し付けがちな状態です。全体的に同じ教育を施すので、ある世代は雇われ人のような育て方をしますが、ある世代では個性派教育をして責任のある自由を与えます。
これも聖書や祈りがなく、中央集権で、一人一人を牧師さんや他の信徒が相談したり理解したりしていないことによっておこるように思います。

長くなってしまったのでこの辺で自由についての議論を止めておきますが、

いつかこの話もゆっくりしたいと思いますけれど、恐らくは、子供達全員に当時の需要を要求して全員をそのように育てようとする日本の義務教育が悪いのかも知れませんね。

西洋では、ちゃんと聖書を読んでいる教会であれば「コリントの信徒への手紙一 12」を読んでいたはずです。

'つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。'

コリントの信徒への手紙一 12:13-26,28-31

コリントの信徒への手紙一 12:13-26,28-31

多くの日本人がこの部分を読んで「全体主義的だ」と馬鹿にするのは何となく目に見えているのでもっと部分引用にするべきだったかもしれません。

しかし、もし信徒でなくても、「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」だとか「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません」という話にはだれであれ納得せざるを得ないのではないでしょうか。まあわたし自身は本当は、自分がやりたくない仕事だと言うことを聞かない部下がいると「義手と義足で脳だけロボットに移植したい、AIと俺だけでいい」とか言うのですがそれはさておき

そもそも、少なくとも皆さんが民主主義的な思想を持つのであれば、ホッブズの『リヴァイアサン』曰く、万人の万人による闘争状態になるので、自由のために結局人はまとまらざるを得ず、そのためにいくらかの自由を放棄するらしいので、結局、全体主義になるはずなんだとは思うのですが…それにそのまとまる動機に聖書を参考にしている面は否めません。

まあその話は置いておくとして、教会がそれぞれの個性を無理なく別々に育てていた子供たちの細やかな差異を生かした生き方の提供があったのに、日本に神と個人的に祈る教会がない故に、何か大事なことを見落として、結果子供の幸せな人生そのものを失ってしまうのかも知れません。

恐らくは、マズローの提唱した社会的欲求の所属先にも問題があったのです。幸せと自由は日本人である私にとっては必ずしも同一ではない事柄に感じるのですが、実際はどうなのでしょうね。

https://notebooklm.google.com/notebook/525808cb-0cf6-4403-b88f-6a16fb782cf9

--結論--

結論を言えば「人によって自由の究極形態は違う」ということです。

私は『容疑者Xの献身』と言うミステリが大好きですが、この小説に登場する数学者がホームレスを眺めながら「人は自由になればなるほど規則的な行動をとる」と話していました。

恐らくは、神様は全知全能なので、我々の自由の究極形態というものをご存じなのでしょう。だから神様に従って鍛えられていく末に自由があると聖書と聖職者が伝えるのですが…いかんせん全知全能の方の考えなので何が起こっているかよくわかりません。

まあここは想像してもらうしかないので信じてない人にとってはどうでもいい話なのでしょうが、しかし、日本と言うキリスト教徒が1%しかない世界で、どんな苦痛があったのかという証拠そのものは、神学的な軌跡を抜きにしても、歴史に刻まれたわけです

今回は、その要因の一つが「適職に付けないという不幸」ひいては自分自身の特性や特技を愛せないことにあると言っているのですね。特に韓非子系の組織では自主的な善意だとか行為や機転、あるいは嘘を見抜くような論理力なんかが価値が低いことや危険なものだと思われていました。そういう人は勝手に行動した利勝手に業務改善をすると怒られたり、あるいは韓非子自身のように、賢いという理由で危険視されて殺されてしまうこともあったでしょう。実際に大規模に行われたのが、毛沢東も賢いからという理由で気に入って仲間になった李鋭を投獄した状態で、知恵者を迫害する文化大革命やポルポトなどの反知性主義だったでしょう。そこでは知恵者は場合によっては醜い者になるように交配を工夫されたり、顔を縛って奇形にすることで、自由にその力を発揮できないようにされてきました。日本でも表向きは「空気を読めないやつだ」と言われて本人の性格が悪いように言われることがありますが、実際は頭の悪い人には見えないことを、どう考えても見えているので嘘がわかってしまい、間違いを指摘しないと結果みんなが死んでしまうことがわかって、空気を読まなくてもその話をせざるを得ないだけで空気を読めていないわけではないこともあるのです。そういう人は日本では性格が悪い青二才だとか正義だけで世の中は回らないなどと言われ、その地位や品性を貶められ続け、賢いことを憎んで、無理に女遊びなどをしてやりたくもない低俗な人たちの生活にあわせて庶民感覚を理解しようと努めさせられました。その上、自分のように低俗になったエリートを見て、彼等はにやにやして見下すのです。自分の様に汚れないと気が済まないのです。そうでなければ、ヒモテだと言われ続け、どれだけ正しいことを言っても、女にモテているという既成事実が無ければ、自分自身の姿を愛することはできません。

私はそれがとても嫌でした。

私は今はそれなりにモテた女性だから素直に「そのような性的に充実していないかどうかで人の発言力があるかどうかを定めるのは問題である」と言えますが、もしヒモテの醜い男だったら口が裂けても言えません。心の中にいくら正しいことが内側にあっても、モテないから何も言えないのです。

何が正しいかではなく、空気を読ませて自分が御贔屓に下側を勝たせたがる日本の低俗な社会では、彼は生きていても死んだようなものです。ただ無言で善を成すしかない。時折、自分だけが性欲の強い男だといわれるのがムッとするのか、関わりたくないから黙っている彼の前にわざと友達の美しい女性を連れてきて、悪意を持って揶揄いながらです。

はっきりいっておきましょう。私はそいつらが死ぬほど嫌いですし、酷い目にあって死ねばいいと思っています。私の胸を見て劣情を抱いている彼らの惨めな姿は非常に面白いものでした。容赦なく、頭が悪いから人に取り入ることしかできない価値が低いものであるといって貶してやった時は楽しいと思っていました。でも無言で正しいことを見過ごさせられた男性の傷よりもっと軽いのでしょう。死ねばいいのに。

しかし、私は日本のとても小さな貧乏な教会で、それを解決する鱗片を見たのです。そこの牧師さんは「教育というものが大事だ」と話していました。実際その通りです。

全員に個性派教育するのも、全員を従順にするのも、どちらも恐らく間違っていたのです。
民主主義で多数決だと従順な教育しか受けられなくなってしまい、
リーダー格の人や学者や頭脳労働者が育たなくなってしまいがちです。

私も教員免許をとろうとしたことがあり、その学校そのものは大人しく優秀な生徒が多かったので教育実習は楽でした。しかし、正直それでも30名のそれぞれの生きがいや生きる意味を認めて教育することは難しいと思います。

問題児が一人いるだけで破綻しかねません。数名の子供を見てはじめから優秀な子供をほおっておいているようなものです。勉強が得意な子にとってもブランクが多く、苦手な子供は劣等感を覚えます。

教会のようなそれぞれのペースで学んで、自分の生き方を定めてから必要な学びをそれぞれ受けた方がモチベーションも上がり、効率もよいのではないでしょうか。競わないでお互いを支えあって協力し合うのも良いです。

全員同じ自由を持っているわけではないので他人の自由を真似しても自由にならないように、自由な時の行動は人と違うのですね。それを知らないで他人をうらやんでいると苦しくなってきます。その価値基準を全国一律にするのは無理があるというものです。

今は性欲で間違った社会をつくっている者たちを貶していますが、別の時代で別の場所では「気が利くし、自分から行動できるいい奴」として友達になったのかも知れません。個人的には、たぶん、それは教会が無ければその溝は深すぎて殺し合いに発展することもあると思っています。
それだけ美意識が強く性欲を愛せない者にとっては彼のやったことは最低なことなのです。あえて言いましょう。死んだ後も地獄に落ちて二度と這い上がってくるな、現世でもこの世の惨めさを世界一の辛酸をなめながら味わってお前の娘と妻と恋人たちに嫌悪され、死んだ後も足でけられて見捨てられろ、と言いたい。

■余談:貢献心と自由

自由にしたら、アメリカではみんなが現実的な仕事で貢献しようとするのに、日本だと漫画家とyoutuberがトップだったことがありました。
安倍元首相も教育に問題点を感じていましたが、戦前戦中あたりの教育を取り戻そうとしてしまいました。私はこれはこれでダメだと思っています。
多分もうその教育はある程度人権侵害だからという話もあるでしょうが、私はあえて、歴史的に失敗したからと説明したいです。

この話に関しては、散々他のnoteでも書いたので、こちら→■をご覧ください。

長いので簡単にまとめると、

基本的に日本の戦中戦後の組織維持手法は、古代ローマか中国式かあるいは老荘思想と癒着した文化大革命的思想や性悪説的韓非子系の組織なので、

中国史のような、「いいなりになるタイプばかり出てきて科学や社会学が成長しにくいか、性欲をモチベーションにするので、例えば調査に100年以上、いや20年くらいかかると、「成果を出さないと結婚してもらえない」から成果を焦って武漢ウイルスや原子力発電所などをつくったりしなくていい戦争をしてお金を貰おうとしたりします。あるいは、もはや科学技術が性欲が強い者たちにはもう追いつけないような代物である場合は、芸術的成功なら短期間でサクラを雇えば簡単に得られるので、税金で需要もないのにしなくていいプロジェクトマッピングや噴水を作って成果をあげようとして政治家を脅す奴が出る」という末路を遂げる可能性が高いのです。

もう一つこの手の古代ローマや中国の軍事国家的システムの欠点は「議論すると怒る上司が上に立ちやすい」ということです。これ自体は、組織がぶれずにまとまる側面もあるので、雇われ人としてはある意味の正しさもあるのですが、しかし、多くは技術が突出しているから尊敬されるタイプが上に立つので、あんまり議論が得意でない人が上に立つことがあります。すると、「これは正しくないのではないか?」と疑問を挟む学者タイプの人が上に立てず、自分一人だけで開発しないといけない状態が長く続きます。また賢いと嘘を見抜くことが多いので殴られて黙らされるうちに頭も悪くなっていきます。
まあ平たく言えば、頭ごなしにネガティブだと言われて議論ができないのですね。特に中国や日本や韓国は秘密主義の人が多く機密を漏洩しないタイプの組織維持をとりやすいので、議論できる組織になっていないことが多いです。議論するということは、恥ずかしいことで、幼稚なことであると思っている人もいます。俺達はそれが仕事なんだけども

そして、この組織のままでは今後はうまくいきません。肉体と頭数さえあれば生産ができた時代に比べると機械化していますので、機密漏洩せずに話し合わずに過ごして同じ行動をとる韓非子系の組織は限界を迎えています。機械そのものを作るコストが高すぎるので漏洩したところで初期投資が高すぎるが故に真似しにくい状態だからです。
ハードからソフト面での開発が増えている中、
今まで通りの組織維持方法では、国が弱体化する恐れがあるので、あえて聖書を取りざたしなくても既に失敗しているわけですね。(※そうしないと信じないので神様が放置しました。よくなんで神様がいるのにこんな酷い社会なのか聞く人がいますが、ローマの信徒への手紙1勝の24節以降を読むとわかると思います。我々が信じないので、一度体験させる羽目になったのです「見ないで信じる者は幸いである」)

また、古代ギリシャのように、快楽や餌で動かす民主制も失敗します。
結局、聖書が作り出す自主的な善意や教育によってまとまる外ない可能性が高いです。少なくとも成功例はそれによってつくられたことは歴史が証明しました。日本はそれを認めず、西洋の上澄みだけマネしましたが、やはりキリスト教会が無ければ貢献心が育たなかったのです。そうして「愛されずいなくなってほしい」と願う人が多くなるゆえに滅びます。

ある意味、日本は反面教師としての、キリスト教国ではないが西洋式の社会を運営して失敗した歴史的根拠として役に立った側面がないとは言えません。これからは、「日本みたいになるよ」と言えば無条件で皆日本的になりたくないという動機でよい社会をつくろうとします。ありがとう日本。間違った自由の末死んでくれてありがとう。君の犠牲は無駄にしないよ日本。

ある意味特効薬です。「私は好きにしたお前も好きにしろ」

■余談

(※注釈①)「アウグスティヌス帝のように、散々遊んでから、その後罪を許されたい」という話をお勧めしない理由。

これについての説明も長くなりすぎたのでその説明を後ろにもっていきました。
異教徒が大人になってから信じるケースの信徒は、若い時に神様がいなかったので、もう深刻に自他の魂が傷ついているケースもあります。この場合、傷からくる苦しみによって、かなり強く神に従う信徒になりますが、魂が傷ついているので、死にたがっている人も多く、そのあと死ぬこともありますので、その前に救われた方がいいです。

そうでなくても、自分だけではなく、誰かが傷つくわけですね。

理由としては、他人を傷つけた負い目から自分が救われないように振る舞ったり、あるいは他人も自分と同じように堕落するように誘う悪人になってしまい、恨まれてしまうケースもあります。

こういう人にとっては、「キリスト教徒さえ来なければ、この国の風習で許されてきたのに」と神様が憎く感じるかもしれませんが、しかし、貴方の好奇心から犠牲になった他の人にとっては神様は救い主です。

神様が全人類を愛していても、どちらも両方を選ぶことはできませんので、残念ながら、悪い方がひどい目にあいます。

許されようとすれば相手が示談にしてくれることもありますが、許すと言っても、地上の裁判のように判決が覆されるということはなく、許された後、後で貴方が悪いことをしているのを見て、許した人が「やはり許せない」と言った場合は、再び賠償を請求することもできるので、ほぼいいなり状態になってしまいます。神様から逃れることはできません)

あえて、皆さんが信じていない天界の話をすれば、
地上という者は基本的に、永遠に生きる者が記憶が無くて愚かな自分の劣化品がそれぞれ無防備にやり取りしている世界です。

恐らくは、霊にはある程度の分類があり、大きく分けて、12か16種類に分かれており、それぞれ似ている者の失態を見てお互いを見下しあったり政権を逆転させたがる人もいて荒れている者と思われます。余談ですが恐らくは、闇落ちした○○と神に従ったときの○○が同一視されているケースもあるかも知れません。しかし、この分類はあくまで種類であって、虹のようなもので、人によっては7色の分類に見えますし、3色や2色や256色や36色や72色の分類に見る人もいるでしょう。なのでこの分類に関しては気にしないでください。

そもそもその違いで仲間意識を持つことも虚しいことです。必要なのはもっと別なことです。

しかしそれをわかってないアホも救わねばならないので、その分類で人を馬鹿にしてくるクソ虫どもに舐められるわけにはいかない役職もあるわけですね。その偉い人、例えば生徒は絶賛反抗期で、何とかして嫌いな先生の欠点を探っていたとします。そんな時に先生になるはずだった位格が「お前の位格直ぐに人妻に誘惑されるよなwww」と言われていたら、彼等は教育を受けられずに終わって全員死ぬとします。

貴方は「イエス様にどうせ許されるんだろ?」と言いますが、
そうやって許されて天に帰っても、評判を落とされて、ろくに仕事ができずに、魂は神に従いたいと思っているのにもかかわらず、お前の女遊びのせいで生徒が幻滅し、話を聞いてくれず、全部無碍になったとします。仲間に悲しそうにされ、諦めたように「うん、でも、知らなかったんだもん、仕方ないよね、地上でモテてないと言われると、君が得意な表現して間違いを警告する仕事ができなかっただろう?だから、気にしないで」と言われるとしたら、死にたいと思います。まあ、地上で言えば、似ている人が馬鹿にされるのでやめましょうと言うことです。

まあ例えるなら、自分の息子が失敗して、自分も同じような問題を犯しそうだと思われて面目を失う感じです。遠い親戚で無関係だとしても「この顔の人って、毎回こうなるよなwwwお前もなんか顔だけじゃなくてバカなところも似てるぞww」となっていたら、息子も親も親戚も物凄くつらいと思いますが、そういうことです。しかも天国では永遠に生きます。永遠です。永遠に無知だったとは言え、記憶さえなければ主君を裏切り、女の子の前で鼻の下を伸ばしてスカートの下を盗み見ようとして、盗みを働き、裕福だったのに嫉妬で人を殺したとします。天国はみんな優しいから余計に辛いかも知れませんが、勉強したくない生徒や悪魔は容赦がありません。想像しただけで死にたいです。もし貴方が教師なら、これから生徒を教えるたびに「お前に教わりたくない○○野郎の癖に」と言われ続けます。そうなると、ちょっと少し向いてない別の仕事をしてもらうしかないか、あるいは、信頼を失い、怖がられ、拒絶され、ベリアル(無価値)になるしかないかも知れません。

(※注釈②)自分の適職を愛せないということは自分自身を社会から卑下され、社会に従うことで自分自身も自分を卑下していることになる理由について。

まず自分の適職を知らされてガッカリするということは、得意な仕事を卑下されているからである可能性が高い。自分が得意なことで誰かの役に立ったら、褒められたり感謝されてうれしくなって誇らしく思うはずです。クリスチャンなら自分ではなく「神様がこの様に作ってくださったからできたのだ」と謙虚に誇ることができ、安心して周りも喜ぶのですが、日本では自分の努力でそれを行っていると考えるわけなので、あまり他人に助けられると自分が頑張っていないように感じて、できる人がいると疲れてしまいます。

自分がその仕事が苦手で、他人より遅れている時は、「転んでくれ」「遅れてほしい」「あいつが失敗しろ」と内心思う人もいるでしょう。実際日本人の職場では、勝手に仕事で機転聞かせると「お前のせいで皆がやらなければいけなくなった。客を甘やかすな」と怒り出す人がいます。少しサービスしようと思っても、良心や思想の自由は認められていないのです。

もしくは、その仕事そのものが必要がないと思われていることもあります。例えばミヒャエル・エンデの『モモ』という作品に出てくる少女が行うアドバイスなんかも、時間泥棒の灰色の人たちにとっては役立たずの仕事ということになります。お金ももらえず、ルンペンのように過ごさねばならない気の毒な役職の人もいることでしょう。

それは我々先にフライングして神様から預言をいただいている者に言わせれば、自分自身を愛せないのと同じです

自分の天職の仕事に就くとそれを「役立たず」「お前なんか要らない」と言われて蔑まれているわけです。

聖書的な価値観で言えばどの人も神様が分け合っておつくりになっているので勝手に人間が裁いたりお前は要らないということは言えないのです。


(※注釈③)愛しているから信じて。

(※多くの日本人に信じてもらえないのはわかるのですが、神様は人々を愛されるのです。救うために他の子に「あいつを愛するようなら私は愛されていない。死ぬ」と言われ、別の子が「彼のために私は神に愛されないことを我慢します」とでも言われない限り、神様は我らを愛される方なのだと思います)

(※他にも、パンドラの箱のような知恵もいくらか存在するのでしょう。
知ると絶対に死ぬような話です。たぶん「信仰によって生きる」ことが大事である由縁だと思います。私たちは一度記憶を失わねば死ぬようなものなのです)

(※因みに私は容赦なく知恵を聞いて、嫌いな子を神様に殺させてしまいました。なんて親不孝なのでしょう。おかげで皆さんに知恵を話すことも可能です。日本人があまりにも私を信じないので、憎たらしくなって知恵によって相手のプライドをズタズタに壊して殺してしまいたくなったので、
知恵を学びました。
私はもう神を信じなかった日本人や韓国人が憎く、愛していません。
知恵によって貴方が苦しんで死んでもいいと感じています。
苦しんでいると笑いながらざまあみろと思えます。
自分の心が楽になるデマを信じようとして、貴方達みたいな価値がない者に見下されるのは本当に嫌でした。それ故、知恵がない貴方たちに身のほどを弁えさせたかったのです。

蛇のしたかったことはこういう事なのかもしれません

恐らく、蛇の罪とは、無知だった時の方が幸せな者が聞いても、どうしようもないことを教えてしまうということかも知れません。あるいは教える順序を間違えたか。

もしくは私のしていることは悪意であっても罪ではないのかも知れませんね。「あの時は罪だったかもしれませんが、今は同じことをしても罪ではない」ということはあり得ます。

本当は、聖書には「知恵のある言葉で語ることもできたが、信仰によって救われる方が良いので、あえてそうしなかった」という手紙を書いている人がいます。

しかし私は今、日本人の多くが納得しそうな如何にも知恵深く、賢くなるにはよさそうな言葉で話しています。
たぶん、本当は最高に望ましいこととは言えないのかも知れません。
何れ知るとしても、急に大量の知恵を無理やり詰めることは、人によっては、苦しめることなのかも知れません。しかし、もし悲しいことになっても、それで信じないよりはマシなのです。

私は人々をもう愛せません。憎んでいます。しかし神の仕事はします。なんででしょうね。他にすることが無くて暇なのです。私は愛していませんが、神は貴方を愛しています)

(※注釈④)相手がもし凡人でも、貴方の死角を見ている可能性はあることを忘れないで。

(※聖職者は別の視点で違うことを見ていることがあります。私も科学が好きだったので、「そんな迷信を信じるとは、きっと、牧師さんは世間知らずでお人好しのお爺さんなのだ。しかし、無視をするのもかわいそうだから、話を聞いてあげよう」と思っていたのですが、とても知恵深い回答をされるので、かえって、恥ずかしい思いをしました。

牧師さんは気にされていませんでしたが、しかしそれで侮られて救いにならないのは困るので、語り方や身なりや自分のエピソードや品のある振る舞いに気を使っているように見えました。手紙に書かれた使徒パウロのように、私が科学が好きなのを察して科学が好きな者のように振る舞っていました。しかしお金や時間の都合でそうできない人もいるはずです)

神様に使える人は、人を傷つけないように知らないふりができる人もいますし、逆にはっきり言うことで人を躓かせない人もいます。どちらの方が波長が合うかはわかりませんが、だから神様はたくさんの人を作って個性をつくりそれぞれの隣人にしたのだろうという牧師さんもおります。

全員同じ自由を持っているわけではないので、他人の自由を真似しても自由にならないように、自由な時の行動は人と違うのですね。それを知らないで他人をうらやんでいると苦しくなってきます。注釈で結論を書くのもどうかと思うのですが、私がこの文章で言いたいこともたぶんこれで、「人によって自由の究極形態は違うのだ」ということを言いたいのだと思うのですね。

私は『容疑者Xの献身』と言うミステリが大好きですが、ここに出てくる数学者がホームレスを眺めながら「人は自由になればなるほど規則的な行動をとる」と話していました。恐らくは、神様は全知全能なので、我々の自由の究極形態という者をご存じなのでしょうね。だから神様に従って鍛えられていく末に自由があると聖書と聖職者が伝えるのですが…いかんせん全知全能の方の考えなので何が起こっているかよくわかりません。


【2026年追記】
寡聞にして無知なので、既にある概念だったのをFaceBookで見かけて恥ずかしい思いをしています。

https://www.facebook.com/shin.shinohara/posts/33746487621664892?ref=embed_post
もう長々と説明したけどこの短い文章で全てが完結した

「freeを「自由」と訳すのはやめちまおう、「干渉がない」で。」

「自由」って言葉を日本語は捏造してしまったから、自由という独自の何かが存在する気になってしまうのだけれど、私は「自由」ってないのだと思います。ジョン・スチュワート・ミルが「自由論」で論じた、英語圏の「free」は、「(干渉が)ない」という意味でしかない。いらぬ口出し大きなお世話、がないのが「free」なのだと思います。

人間は基本、あれこれ口を出されるのが嫌い。ああしろこうしろと命じられるのが嫌い。自分で考えて、自分で決めたい。自己決定したい。でも干渉があるとそれができなくなったり、変な影響を受けて判断が歪んでしまう。勘弁してくれ!というのが「free」のような気がします。

で、いざ干渉がなくなったとき、「ふう、これでやりたいことがやれるぜ!」と思ったら、意外と「あれ?何したいのかな?」となってしまうことがあります。干渉されている間はあれもしたい、こうもやってみたいと夢見ていたのに、さあ干渉がなくなると、自分のやりたいことが分からなくなることも。それは、突破すべき「壁」「制限」まで取っ払ってしまったからかな、と思います。

たとえばサッカーでは、手を使ってはいけないという「壁」、「制限」をあえて設けています。そんな不自由なルールを課したら、最も器用な部位である手を使えないなんていう制限を設けたら、「いやだ!おれはボールを手で握りたい!」という「自由」を求める人が出るかと思いきや、みんな面白がって手を使わない、というルールをあえて守って、不器用な足や頭で何とかしようとし、しかもその不器用さを楽しみます。不器用な部位しか使えないという制限を楽しみます。なぜか。

その制限の中には、その壁の中には、無限の工夫の可能性があるからだと思います。足をどう動かすのかも、頭をどう使うかも、自分であらゆる形で決定できます。むしろ、「手を使わない」という制限を加えられたことで、足や頭を器用に使うしかない、という「課題」が明確になり、その課題を克服するというゲーム性に夢中になります。

でももし、監督が「そう蹴るんじゃない!こうだよこう!」「俺の指示通りに動け!」と指示命令という形で「干渉」する人だった場合、きっとそのサッカーは楽しくなくなるでしょう。こうして考えると、「壁」や「制限」は、いろんな工夫を凝らすことができる可能性が担保されているなら、むしろ課題が明確になり、それを克服するゲームとして楽しめるけれど、「干渉」の場合は、それ以外の行動を許されない、工夫も遊びも許されないものになり、しかも課題克服という楽しみどころか「従う隷従感」が重視されるから、嫌われるのかもしれませんね。

子どもって、「(道路の)白線以外、踏んじゃ駄目よ!」と「制限」かけると、不思議なほどその制限を守ることを楽しみますよね。そのルールの中でワイワイキャアキャアと楽しんでしまう。制限の中に無限の工夫の可能性を感じて、課題が明確になるからそれを克服するというゲームになって、楽しいからだと思います。

そう考えていくと、やはり、いわゆる「自由」と呼ばれているものは、実は「干渉がない」という意味なのかな、という気がします。人間は干渉されることが大嫌いだけど、克服すべき課題があるほうが楽しくて、そのために「壁」とか「制限」があると、より興奮するのかもしれませんね。

バスケだってバレーボールだって、ボールへの接触の仕方や歩数とかが制限されていますけど、その制限があるから工夫のし甲斐があって楽しくなる。ですので、人間には、ある程度工夫する余地が担保された「壁」や「制限」はむしろ大歓迎で、でも一挙手一投足をコントロールしようとする「干渉」は大嫌い、と整理するといいのかも、という気がします。

そして「free」を「自由」などという、それ単独で存在する何かのような訳語やもうやめちゃって、「干渉がない」と訳しちゃったほうが、変に考えすぎず、迷いもしなくていいような気がします。「自由」なんて訳すから「自由とは何か」という、意味不明な迷路に迷うのかもしれません。たぶん、それは無駄。自由なんか考えなくていい。そんなものないから。「干渉がない」ってだけだから。

「干渉がなくなったぞ、さあ、じゃああえてどんな「壁」や「制限」を設けつつ、どんな「課題」をやっつけてやろうか」というゲームを楽しむだけ、と考えると、物事がすっきり見えるような気がします。

https://www.facebook.com/shin.shinohara/posts/33746487621664892?ref=embed_post


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