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【1981年のYMO(その3)】テクノデリックと構成主義

1981年の躁と鬱


この記事を掲載するまでに、前回から2ヶ月を要しました。年度替わりの繁忙期とは言え、何たる体たらく。「継続は力」と申しますが、続けていくことの困難さをつくづく感じる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。そう考えると、YMOが『BGM』いわゆる『テクノデリック』という二つの歴史的なアルバムを、短期間のうちに立て続けにリリースしたことは驚異的と言えるでしょうね。

さて、私が『テクノデリック』を初めて聴いたのは、アルバム全体を通してではなく、NHK-FM『サウンド・ストリート』火曜日で紹介された数曲でしたが、『BGM』に比べて随分と明るくなったという印象を受けました。依然としてコマーシャルな音楽ではありませんでしたが、『BGM』とは別の方向にベクトルが向いているのを感じました。

「Pure Jam」「ひょろ〜ひょろ〜」っていう2音のシンセ・リフやリバーブが少なく乾いた感じは、『BGM』の「バレエ」のような暗く籠った音像とは明らかに違うものでした。特に「体操」には、突き抜けたような明るさがあります。教授が吹っ切れたようにメガホンで叫んでいたのが印象的です。この明るさは、一体どこから来たのでしょうか。

プロフェッサーの帰還。


『BGM』では、メンバー間の不和によってスタジオでの個人作業が多くなり、全員が揃わなくてもYMOとして成立することとなりました。まるで、一つのアルバムの中に3人のソロ作品が共存するかのような個人主義的な音楽制作が進展し、バンドとしてのアイデンティティーが希薄になりました↓

特に教授は、「CUE」の成り立ちについて懐疑的だったこともあり、『BGM』への貢献度が決して高いとは言えません。完全な新曲は「音楽の計画」のみです。翻って『テクノデリック』では、韓国旅行などの気分転換を経て再び活力を取り戻し、音楽制作上の存在感が増しています。教授本人も「一番好きなアルバム」「ぼくの音の好みが反映されている」「それまで抑えていた現代音楽の引き出しも、臆面もなく、どんどん使った」などと発言しています。

この教授の復調によって、3人が同じ方向を向いてアルバム制作に向かえたことは、紛れもない事実でしょう。そのことがアルバム全体を支配する明るいトーンにつながったと考えても、あながち間違いではない気がします。しかしながら、そのベクトルが再びバンドとしてのアンサンブルに向かったのかと言うと、さにあらず。松武さんが持ち込んだサンプラーの試作機LMD-649が、YMOの音楽制作に更なる変化をもたらすこととなりました。

テクノデリックの正体


『テクノデリック』を評価するときに、「世界で最も初期にサンプリング技術を使って録音されたレコード」という常套句があります。それはまったく間違ってはいないのですが、導入の早晩よりも大事なのは、サンプリングがもたらした音楽制作の変化でしょう。

テクノポップというと、マシンによる均一なビートをイメージしますが、特に初期のYMOには人間が演奏することによる「ゆらぎ」がありました。クリックに合わせていたとはいうものの、そこには(フュージョン的な)凄腕ミュージシャンのアンサンブルとしてのグルーヴが確かに存在したのです。

しかしながら、前述のように『BGM』に至って、もはや3人が揃って演奏するバンドとしての体裁は不要となっていました。「ハッピー・エンド」は教授しか関わっていないでしょうし、「来るべきもの」のようにドラムやベースがなくてもYMOたり得るのです。

そして、『テクノデリック』では、更に異なるフェーズへ歩を進めることとなりました。件のサンプラーを用いて、人の声はもちろん、日常的なノイズや工場の機械の音など、様々な音の断片をリズムに乗せて、時にはあえて乗せずに空間に配置し、構成的に組み立てる制作方法に変化しています。

すなわち、『テクノデリック』は、既存の楽器演奏によるアンサンブルから音の断片を用いた「構成的な配置」への転換点となった記念碑的なアルバムなのです。不思議とジャケット・デザインのロシア構成主義とも呼応しますね。

『テクノデリック』では、ベースやピアノなどのアナログ楽器の演奏が増えました。それにも関わらず、ここでは幸宏さんのドラムも、細野さんのベースも、教授のピアノも、全てサンプリングされた環境音と等価なのです。人間の演奏によるノリよりも、どこに音が配置されているかが重要なファクターとなります。3人の実験的な精神や常に新しいものを追求する姿勢を鑑みれば、この新たなガジェットの登場に、嬉々としてレコーディングに取り組んだであろうことは想像に難くありません。

このような構成主義的な音楽構造は、バリ島のケチャを引用した「Neue Tanz」や、「チキチキチキチー」というハイハット風のサンプルが特徴の「Light In The Darkness」において、最も顕著な形で表れています。そして、トドメは「Prologue」から「Epilogue」へと至るメドレーです。文字どおりインダストリアルな工場音と教授の奏でるシンセが、同期するわけでもなく並走して鳴り続ける。まさに等価なんですね。同時に、前述の教授の存在感の増嵩を象徴するようなアルバムの締めくくりとなっています。

本作が提示したサンプリングの手法は、単なる音響上のスパイスではなく、音楽を演奏から設計へと解き放った「革命」だったと言っても大袈裟ではないでしょう。これが音楽シーンに与えた影響の核心は、単純な新規性ではなく、制作の前提条件を変えてしまった点にあります。工場の機械音や金属音を楽器と等価に扱う姿勢は、後のハウスやヒップホップにおけるサンプリング文化の先駆となりました。また、「楽器を弾く」ことから「音をエディット(構成)する」ことへの価値転換は、現代のDTMにおける制作フローの根幹であると言えます。

ウィンター・ライブとイモ欽トリオ


『BGM』と『テクノデリック』を引っ提げて敢行されたウインター・ライブの模様が、1982年1月3日にNHK-FMの新春特番として放送されました。イモ欽トリオがゲストで登場し、互いに3人組であるため、YMOがイモ欽トリオを、イモ欽トリオがYMOを演じるという演出で放送されました。

イモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」は、テクノ歌謡の金字塔として多くのファンに記憶されています。それは、チャートや売上の側面だけでなく、お茶の間が求める完璧なテクノポップを提供したという点においてもインパクトが大きいものでした。「君たちが聴きたいのは、こういうヤツだろ?」っていうね。

細野さんの手によるアレンジは、まるでYMOのセルフ・パロディのようで、1981年のYMOから逆行するかのように、従前のテクノポップを非常にうまく自己模倣しています。一方で、現実のYMOはサンプリングによる構成主義的なアプローチによって、ハイスクール・ララバイ的なテクノポップから離れ、遥か彼方の境地へと到達していたのです。

1982年には、YMOはグループとしての実質的な活動がありません。『BGM』と『テクノデリック』、二つのアルバムの制作を終えて、YMOとしてできることは出し切ってしまったという思いが、3人に共通してあったのかもしれません。1982年のYMOについては、ぜひ下記の記事も併せて読んでください↓


*「もう一度読みたい良記事」に加えていただきました。
*この投稿は、予告なく改訂することがあります。
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