『弁論』(第4回)の感想---「こたけ正義感の話芸について」。
最初に「こたけ正義感」を知ったのは、深夜のバラエティーだった。
自身も弁護士で、パートナーも弁護士で、しかも海外で働いている。子どもが、その時、2歳くらいでパートナーと暮らしているから、なかなか会えない。ただ、自分は弁護士をしているが、芸人でもあり、今が頑張りどきでもあって、チャンスでもある。だから、日本にいたいけれど、子どもとも暮らしたい。
その葛藤に対して、ベテランの芸人が、その男の子の年齢を尋ね、こたけが2歳と答えると、その頃はすごくかわいいし、もう戻ってこないからね、といった話をして、こたけの悩みを一層深くしていたのは、その場面の詳細は違うかもしれないけれど、覚えている。
その時は、こたけ正義感のことを、よく知らないのに、失礼ながら、時々いる、医師や弁護士という社会的にも「強い」職業に就いている上に、もっと自分を見てほしい、というような、人前に出る活動をしたがる、自己顕示欲の強い人かと思っていた。
「袴田事件」
それから、しばらく、その名前を忘れていたのだけど、急に注目が高まったのを知ったのは、2024年から2025年にかけてのことだった。
こたけ正義感の単独ライブは『弁論』と名付けられ、その第3回がYouTubeで無料公開されて、それがかなりの再生数を記録したことを、その公開期間が終わってから知った。それも、そのテーマが冤罪事件として有名(という表現が適切かどうかもわからないが)な「袴田事件」ということだった。
それを60分間、一人で、しかも笑いを交えて話し切ったらしい。
1966年、静岡県で一家4人が刺殺された事件があった。警察は元プロボクサーの袴田巌氏を被疑者として逮捕。14年間の裁判を経て、1980年に袴田氏の死刑が確定した。
しかし、この裁判は警察側の自白の強要や証拠の捏造が強く疑われるものだった。袴田氏の弁護団は翌81年に再審請求を申し立てたが、実際に再審公判が行われたのは逮捕から57年後の2023年、再審無罪を勝ち取ったのは昨年の9月のことだった。
こたけはこの再審公判に、弁護団側の広報として関わっていた。世紀の冤罪事件に無罪判決が出る、その一部始終を“弁護士芸人”として世の中に伝えること。それがこたけの役割だった。
単独ライブ『弁論』では、この袴田事件についての情報が手際よく解説された。その取り調べがいかに過酷で暴力的なものであったか、状況証拠とされる数々の物品にどれだけの矛盾があったか、こたけは具体的にスライドで例示しながら、そのひとつひとつにツッコミを入れていく。
「何言うてんの!」「どういう意味?」
誰が見ても、どう考えてもおかしい。そんな不条理な状況が提示され、芸人がそれにツッコミを入れている。こたけのよく通る声に反応して、客席からも笑いが起こる。お笑いファンにとっては、見慣れた光景である。
だがこの不条理は、芸人が自宅や喫茶店で頭をひねって考えてきたフリップボケではない。すべて現実に起こったことなのである。袴田氏の58年、その虚しさ、怒り、絶望が「お笑い」の中で確かに浮かび上がってくるのが見える。「お笑い」が、それを伝えている。
不思議な感覚だった。60年近くも無実の死刑囚だったという、とびきりの「他人の不幸話」を聞いて笑っているのに、まるで罪悪感がない。その罪悪感のなさこそが、私たちがこの問題について理解を深めている何よりの証拠であるはずだ。
自分が情報に弱いこともあって、恥ずかしながら、その動画を見ることができなかったので、その時の「弁論」の様子は、こうした的確なレポートなどで想像するしかない。
それでも、とても意味があることだし、しかも、こたけ自身が、この事件の弁護団に広報として関わっていた、というのだから、その舞台に立つこたけは、芸人であるのだけど、弁護士としての役割も果たしていることになる。
こうした場所に立てて、複雑な立場を両立できる人は本当に限られていることだけは、よく分かった。
ラジオの情報
そのことも、また忘れそうになっている頃、このラジオ番組で、『弁論』のことを聞いた。
最近は、ニュースや時事的なことはテレビよりもラジオの方が、短いコメントではなく、もう少し時間をかけて伝えてくれるので、より信用するようになったものの、ラジオが今はマスメディアというよりは、もっとマイナーな報道媒体になっていることもなんとなく理解しつつも、自分では知り得なかった、さまざまな情報を得ることは少なくない。
今回の『弁論』の情報も、その一つだった。前回の『弁論』は見逃してしまったし、今回もそのことを知ったのが、無料公開の期限まで1週間くらいの時だった。あんまり時間がない。
「弁論」の視聴
自分の勝手な都合だけど、『弁論』を視聴できたのが、無料公開期限のギリギリになってしまった。
話が始まる。
最初は「転売ヤー」に関しての話題。その違法性について、語られる。それは、こうして動画を無料で見ている人間ではなく、お金を払って、このライブの現場にいる人たちの方が、より楽しめることなのは分かりながらも、この部分がちょっと長いように感じてしまった。
ラジオの情報で、生活保護のことについて語られる、ということだったので、あまりいい観客ではないかもしれないが、その話題が始まるのを待ってしまっていたこともあり、その語りのテンポに対して、ちょっと遅いかも、などと思っていた。
そして、とてもはっきりした発音で、それもライブで見たとしたら、聞きやすく、そして情報を処理する時間としては適切かもしれないけれど、動画を見る観客としては、やっぱり一つの話題にとどまる時間が長く、話すスピードが遅く感じてしまった。
こたけ自身の幼少期が、それも笑いにしているとはいえ、かなり厳しい環境にも思えた。学歴の高さと家庭の収入は比例するのは、暗黙の常識にもなっているのだから、そうした生活の中で弁護士にまでなったのだから、それは、すごいことだと思う。(詳細もわからずに、そんなふうに思うのも偏見で失礼かもしれないが)。
同時に、そうしたある意味で「出世」をした人が、同じように厳しい生育環境にいる人たちに対して、必要以上に苛烈になってしまうこともあるので、こたけ正義感は、そうした姿勢ではないような点も印象深かった。
ただ、ラジオ番組の中で紹介されていたときは、笑いもあるので60分があっという間、ということだったのだけど、最初の30分がとても長く感じてしまい、途中で動画を止めてしまい、残りの30分ほどを残して、食事をしてしまったりした。
貧困と生活保護と「いのちのとりで裁判」
動画の再生を再開した。
「貧困は自己責任か」。
こたけ正義感は、自身の大学の卒論のテーマを語る。それは、こたけ自身のことと関係があるから、切実な話でもあるようだった。
そこから、生活保護の話に移り、さらに「いのちのとりで裁判」までの話の流れは、そこから一段階アクセルを踏んだような印象で、前半と同じ30分強とは思えないほど短く感じた。
その内容は、たとえば、生活保護の申請のときにおこなわれてきた、いろいろと理由をつけて申請そのものをさせないような、本来は違法なはずの「水際作戦」について、または、不正利用ばかりが言われているが、それよりも本来は生活保護を利用する権利があるはずの人たちが、それを申請していない割合がどれだけ大きいか。そうした常識でありながら、まだ広くは知られていない可能性のあることも、分かりやすく、笑いを入れつつも触れている。
さらに、視聴者としても、生活保護の支給額が、安倍政権の時代に10%も引き下げられたことは、情報として薄く知っていた。だけど、それがいかに異例であり、あまりにも大幅すぎる引き下げであることは恥ずかしながら、今回初めて知った。
さらには、この生活保護費の引き下げも公約にして選挙に勝っていたことも、『弁論』では丁寧に振り返ってくれたので、あの時代の、異様とも思える「生活保護バッシング」の空気感も思い出した。
そして、生活保護支給額の引き下げに対して、受給者が裁判を起こし、最終的に勝訴したことは、なんとなくは知っていたものの、その詳しい背景は全く分かっていなかった。
だから、こたけによって、そこにドラマチックな出来事があったのを伝えられること自体が、本来の意味である教養の深まりでもあり、その語りは全てが笑いを生むものではなかったのだけど、とても面白かった。
その「いのちのとりで裁判」は、当初は、その引き下げに対して、違法であり違憲であると訴える原告側が裁判で負け続け、だけど、その裁判の判決文などを詳細に確認する弁護士が存在し、その作業で、その違和感をあぶり出し、それから流れが変わり、最高裁での勝訴にまで結びついた出来事については、全く知らなかった。
それは、大きな相手に対して戦う、ということがどういうことなのか。もしも、それでも勝てる確率を高めていくとすれば、魔法はなくて、とても地道な方法しかないのかもしれない、といったことまで考えさせられた。
そして、最後。
生活保護をめぐるさまざまな理不尽な状況には、やはり「差別」が大きく関わっているのではないか。偏見や差別そのものからは、話しているこたけ自身も完全に自由ではないだろうし、ここにいる観客も、そして動画を見ているこちらにも問いかけられたことだった。
特に後半の30分は、おもしろかった。時間も短く感じた。
弁護士と芸人
こたけ正義感は、「弁護士芸人」として表記されることが多いようだ。
ただ、今回の『弁論』(第4回)は、生活保護などに対しての権利や理解を求める部分もあるから、それは芸人としてではなく、弁護士としての活動でもあるとも言える。だから、元〇〇芸人でもなく、現役〇〇芸人という名称からも微妙に違うように思う。
芸人としての個性のために元の職業の知識や経験を活かしたり、舞台に上がるときは、現役〇〇の部分よりも、やはり芸人として存在している人が多いように思うし、もしくは芸能人として生き残っていくために資格を取得する、というような人も少なくないが、それとも、やはり違うように見える。
他のトークなどと違い『弁論』の時は、こたけは、弁護士として舞台に立っていて、同時に法律の広報的もしくは啓蒙的なことを伝えるスキルが芸人、という存在、というようにさえ見えた。それは、今までいそうでいないタイプの話芸の持ち主とも言える。
個人的には、今回の『弁論』(第4回)を視聴して、転売の違法性や、自らの生い立ちなどの前半部分では、きちんと笑いも取っていたと思うのだけど、個人的には、その部分は落語で言えば枕としてもっと短く扱い、貧困と生活保護の部分をもっと長い時間を取り、さらには「笑い」を減らしても、そのエンターテイメントの質は、さらに上がるのではないか、と思った。
落語にも人情噺というジャンルがあって、そこでは「笑い」だけが重視されていないこともあるのだから、こたけが自身の話芸を、そういう方向へ研ぎ澄ませることも、期待してしまう。
その時は、「お笑い」という枠からは、少しはずれてしまう可能性もある。だけど、とても面白い話芸を持つ「芸人」であることは変わりがないのではないか。
だから、最初に深夜番組で見たときは、こんな細い道を、志を持って歩くようには見えなかったので、こちらの見る目がなかったのだろうけれど、それに加えて、こたけ本人がその後に、ある種の覚醒をした可能性もあるし、何しろ、意外な展開が、今も続いている、ということかもしれない。
こたけ正義感へのお願いごと
無料動画を見ただけで、こんなふうな偉そうな言葉を並べるのも微妙に気がひけるけれど、こたけ本人が、感想を要望していたし、さらには、できたら「弁論」で扱ってほしいテーマがあるから、こうして感想を書くことにした。
それは、「介護心中・介護殺人」という、やはり取り上げにくそうなテーマである。
今でも、約2週間に1件のペースで、こうした事件は起こっている。それも、直前までは丁寧な介護をしていた介護者によって引き起こされることが多い、というなんとも言えない傾向もある。さらには、介護のために働けないのに、生活保護の申請を断られ、事件を起こしてしまった人までいる。
個人的には私自身も家族の介護をしていて、仕事も離職し、そうした生活の中で、介護者にこそ心理的支援が必要と考え、資格を取得し、介護者への個別な心理的支援を始めて10年以上になる。
ただ、その支援の必要性について、介護者の負担感について、機会があれば、スキル的には低いけれど、人前で、そうした理解をしてもらうように話もしてきた。だけど、その支援は一向に増えず、その必要性も理解されず、いまだに介護相談はあっても、介護者のための相談は、ほとんど存在しないままだ。
支援の実践については、細々とながら、周囲の協力者の方々のおかげで続けてきたのだけど、理解を広げることについては、本当に成果が上げられないままだ。
だから、こうしたこたけ正義感氏の見事な仕事ぶりを見ていると、ついお願いしたくなる。この「介護心中・介護殺人事件」のことをテーマに「弁論」を行なってもらい、そのことによって、ここに問題があることに気づいてもらい、そのことによって支援が広がっていかないだろうか、と思ってしまう。
とても無責任で調子がいいとは思うのだけど、そうしたことを考えてしまうほど、家族介護者を取り巻く環境は変わっていないし、介護保険が始まってから25年が経っても、この約2週間に1件の「介護心中・介護殺人」のペースは減る気配が見えない。
だから、お願いしたくなる。このことをテーマにできないだろうか。それが実現したとしても、こちらが思うような方向の作品にならないかもしれず、さらには、想像しない方向への反響を呼んでしまうかもしれないが、それでも、そんなことを思うくらい、介護者の心理的支援の必要性の理解を広げることに関しては、自分の中に無力感と疲労感が積もってきているのだと思った。
(もし、そうなれば、微力ながら情報提供くらいはできるとは思います)。
(※なお見出し写真は、記事の内容とは関係がありません。大きな建築物の工事現場は、たくさんの法律が驚くほど関係があると思い、今回、イメージとして使わせてもらいました)。
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