分離不安症を“治す”より“支える”という選択💊
リンの分離不安は、なかなか手ごわい。
少し寂しがり屋、という可愛い言葉では片づけられない。パパが出かける気配を見せるだけで、彼女の中では非常ベルが鳴る。玄関に向かえば目が泳ぎ、ドアノブに手をかければ世界の終わりみたいな声を出す。
最初の頃は、甘えん坊なのだと思っていた。なんて可愛い子なのだろう、とこちらも呑気に構えていた。しかし毎日それが続くと、可愛いでは済まなくなる。リンにとって外出とは「待つ時間」ではなく、「また置いていかれるかもしれない恐怖」なのだと気づいた。
ある日、かかりつけの動物病院で相談した。
「リンの分離不安、治せますか」
先生は少し考えてから、穏やかに言った。
「治す、というより寄り添うですね」
その言葉は、思っていたより重かった。
こちらとしては、薬を飲めば落ち着くとか、トレーニングを続ければ克服できるとか、そういう分かりやすい答えを少し期待していた。ところが返ってきたのは、治療というより覚悟に近い言葉だった。
🩺 分離不安症の治療を試みた日々
抗不安剤を少量から試したこともある。たしかに落ち着く時間はあった。けれど効果が切れると、リンはまた元のリンに戻った。こちらが勝手に「良くなった」と思っただけで、本人の不安が消えたわけではなかった。
カウンセリングのような相談もした。先生によれば、分離不安には過去の経験や恐怖、そして飼い主への強い信頼が複雑に絡んでいるらしい。
「リンちゃんは、安心の証を探しているんです」
そう言われた時、なんだか胸の奥をつかまれたようだった。
🧠 分離不安症は病気というより、“生き方”なのかもしれない
リンは困らせたくて鳴いているわけではない。嫌がらせで玄関に張りついているわけでもない。ただ確認しているのだ。「帰ってくるか」「まだいるか」「自分はここにいていいのか」と、全身で問い続けている。
人だって似たようなものかもしれない。言葉では平気な顔をしていても、心の中では誰かの返事を待っていることがある。既読がつかないことで不安になったり、そっけない一言で一日中考え込んだりする。犬より人間のほうが賢いような顔をしているが、不安の扱い方については、案外どっこいどっこいである。
リンはそれを隠さないだけだ。
怖いなら鳴く。寂しいなら追う。見失えば探す。非常に分かりやすい。分かりやすすぎて、こちらの生活はたびたび中断される。トイレに行くだけで警戒され、風呂に入るだけで監視され、外出前にはちょっとした別れの儀式が始まる。
それでも、いつの間にか我が家ではそれが日常になった。
「また見てるな」
「また来たな」
「はいはい、帰ってくるから」
そんな言葉をかけながら過ごしているうちに、リンの不安は完全には消えないまま、少しずつ家の空気に馴染んでいった。
🐾 分離不安症を治すより支えるという選択❤️🩹
薬もトレーニングも、思うような結果にはならなかった。けれど、それで失敗だったとは思わない。試したからこそ、リンに必要なのは「変えること」ではなく、「分かってもらうこと」なのだと気づけた。
今でも外出のたびに、リンは騒ぐ。昔よりは少し落ち着いたが、それでも静かな犬にはならない。玄関の気配には敏感だし、帰宅すれば全身で再会を祝ってくる。まるで三年ぶりに会ったかのような勢いである。こちらは近所のコンビニへ行っていただけなのに。
けれど、その顔を見ると、いろいろなことがどうでもよくなる。
リンにとって、待つ時間は長い。こちらの五分は、彼女にとって五分ではないのだろう。時計ではなく、不安の長さで時間を測っているのだ。
🌈 それぞれの幸せのかたち
分離不安は、治すものなのかもしれない。支援が必要な状態であることも間違いない。けれど、リンと暮らしてきて思うのは“すべてを「治す」という言葉に押し込めなくてもいいのではないか”ということだ。
鳴く声も、見張る目も、足元で丸くなる背中も、リンが今日を生きるための方法なのだ。完璧に治らなくてもいい。少しずつ安心できる時間が増えれば、それで十分である。
リンは病気というより、信じる力が少し強すぎる犬だ。そして今日も、パパが立ち上がるだけでリンは顔を上げる。
「どこ行くの」
ただのトイレである。
それでもリンにとっては、確認せずにはいられない大事件なのだ。こちらはもう、ため息をつきながら笑うしかない。
治すより、支える。
その意味を、今日もトイレの前で学んでいる。
↩️ 前話はこちら:第七話|ペットカメラはホラー👻
➡️ 次話はこちら:最終話|分離不安症は個性🥰
