記憶堂の神は呪われ花嫁を恋慕う【第2話】
『――そなた、呪われているな』
少し低い声で放たれた言葉に鞠花は目を見開いた。
呪い。腑に落ちるような感覚を覚え、どこか安堵したような表情を浮かべる。
『呪いでしたか。それはよかったです』
「なにもよいことはないだろう」
『いえ。呪いでしたら、四辻家の皆さんは嘘をついていないということになりますから」
ずっと気に病んでいた。記憶喪失になった自分のせいで、家族かもしれない四辻家に迷惑をかけてきたことを。
呪いという言葉がひとり歩きをする前までは、両親と椿も自分のことを酷く心配してくれていた。今でこそ冷遇されているけれど、あの記憶だけは本物なのだと思うことができると鞠花は頭を下げるのだ。
その行動に紫水はため息を漏らす。
「その優しさを己自身につかえないものか」
紫水に返事をするように鞠花はひきつった笑みを溢した。
まるで、優しくしたところで呪いは解けないのでしょう、と言いたげに。
紫水はこめかみを指先で押さえるが、そのあとすぐに鞠花の瞳を見るのだ。
「単刀直入に聞く。このまま四辻家に残るか、俺に買われるかどちらがいい」
その問に対して鞠花は慌てて筆を握る。
〈飼われる? 買われる?〉
真っ白な用紙に記されたのは細く弱々しい文字。
「後者だ」
紫水は迷いなく言い放つ。鞠花は失礼を承知の上でため息を吐いた。
ここにいても生活は変わらない。買われたら買われたで刃を向けられる未来しか見えないけれど、ここにいるよりは人間らしく生きられるだろうか。
迷い筆が紙の上を滑る。
『私、は……』
「心配はいらない」
紫水は迷う鞠花の前に跪く。そして真っすぐ鞠花を見つめるのだ。
「悪いようにはしないよ」
そう言って、紫水は両手で筆を握る小さな手を包みこんだ。
十七になった鞠花の手は年齢不相応。あかぎれによる傷がいくつもできており、それが癒える間もなく新しい傷ができる。軟膏で保護することを許されない鞠花の手は限界に近かった。
それを見た紫水は苛立ちをあらわにする。
「ここまで身を粉にさせるとは」
『……あの、紫水樣』
「遠慮せずに言うといい」
『お気持ちはとても嬉しいのですが、私が四辻家以外の方と関わることは許されていないのです……』
「四辻家の事情は聞いていない。俺は鞠花の気持ちを聞いている」
ひどく心配した面持ちで言う紫水に鞠花の鼓動が跳ねた。久しぶりに触れた温もりに視界が歪んでいく。
四辻家を築き上げた儀市が亡くなってからというもの、家族の対応はより酷くなっている。
今まで誰も鞠花の気持ちを汲もうとしなかった。
声が出ないことをいいことに、不躾なことばかりを押しつける家族などただの仮面家族にすぎない。
いっそ差し伸べられたこの手に……。
そんな考えを過ぎらせた罰が当たったのだろう。
「鞠花! 言うことが聞けないの!」
母の怒号が鞠花の耳をつんざく。驚いた鞠花は足元に置いてある桶を倒してしまい、着物の裾を水で濡らしてしまった。
濡れたところでつぎはぎだらけの着物は劣ったりしないけれど、裂けた心は広がりを見せるだけ。
椿は上等な着物を召し綺麗に着飾っているのに、自分はみすぼらしい格好しかさせてもらえない。
外出もそうだ。鞠花に許されているのは長屋門まで。街へ出掛ける家族を使用人のように頭を下げ、遠くから見つめることしかできない。
いつかは外出を許される。そう励ましながら、どんな時も四辻家のために頑張ってきたのに、と。
鞠花の瞳からまた光が消えていく。
「あ、あら、お客様もいらしたの!?」
失態を晒した母は紫水の存在に気づき慌てふためく。
しかし時既に遅しというやつで、紫水の怒りは頂点に達していた。
鞠花を連れ戻しに来る母の姿を一瞥し、紫水は本分を告げる。
「四辻鞠花」
名前を呼ばれた鞠花はようやく紫水を瞳に映した。
紫水の優しさは痛いほど感じるけれど、心は揺らぐ。
これ以上はダメ。紫水様にまで呪いの影響を与えるわけにはいかない。
けれど……。
視線を逸らそうとする鞠花の頬を紫水は両手で包みこんだ。
「――紫水の花嫁として、迎え入れに来た」
嘘偽りのない紫紺色の瞳には、驚きを隠せない鞠花が映った。
返答に困る鞠花に紫水は続ける。
「返事は今いだだきたい」
『い、今と言われても急すぎて……』
「急ではない。もう三年も待った。これ以上は待てないし、待つつもりもない」
紫水の温かい両手が鞠花の頬をより一層優しく包む。
鞠花は無意識のうちにその手に自分の手を添えていた。
(……あたたかい)
それでも鞠花には迷いがあった。
紫水という男が悪い人ではないというのは理解できている。それゆえ、その優しさにあぐらをかけない。
呪われたことが原因で記憶がないのなら、新しく築き上げた記憶もいつかまた失くしてしまうかもしれない。そうすれば紫水様に傷を与えてしまう。
人は、忘れられてしまうと憂いてしまうから……。
紫水に触れていた鞠花の手は力なく離れていくけれど、紫水はその手を優しく包みこんだ。
「俺は鞠花が失くした記憶を共に取り戻したいと思っている」
『どうして私のためにそこまで……』
「鞠花に救われた過去があるからだよ」
『私に……?』
「いつか思い出してほしい。俺と鞠花が出逢った、あの日のことを」
言葉の直後、紫水の柔らかい唇が鞠花の手掌に触れる。頬を赤く染める鞠花の心の奥に、灯火が揺らいだ気がした。
母屋の奥にある蔵が鞠花の寝床だった。雑用を押しつけられる時以外は幽閉に近い状況で、陽も入らぬ場所で孤独に生きてきた。
冷えた飯に冷えた風呂。唯一温かかった儀市の優しさはもうどこにもない。
心の拠り所が消えてしまって三年。
またこの温もりに触れたいと思った。
またこの温もりに感謝をしたいと思った。
だから――
『紫水様のおそばに……いたい、です』
ぽろぽろと溢れる涙は、着物の袖口に溶けた。
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