【中編小説】金色の猫 第16話(全33話)#創作大賞2024
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猫、あらため金之助の食事が入っている引き出しを開けた。たいてい袋の音で気がついてケージの二階から降りてくるのだが、今日はまだ毛布の上でまるくなっている。チューブタイプのおやつを手にしても、こちらを一瞥してすぐ前脚へ鼻先を埋めてしまった。
「金之助、おやつだぞ」
ケージの前へしゃがみ込み、チューブを振って音を出す。ふくらはぎのあたりが痺れて冷たい床へ胡坐をかくころ、金之助は大きく伸びをしてのろのろ一階へ降りてきた。人差し指の先へ取ったペースト状の鶏ささみを、生温かい薄桃色の舌が舐める。
白黒の丸い額を見つめながら、俺は焼魚を半分ずつ食べた寒い夜を思い出していた。あれからまだ一か月程しか経っていないのに、もう随分長い時間を黒ぶちの猫と過ごしてきたように思える。この短い間、俺たちにはいろいろありすぎた。
「そしてお前はれっきとしたこの家の猫になるんだ」
もう硬いアスファルトで眠らなくていいし、繁華街の生ごみを漁る必要もない。凍てつく雪の日に、不甲斐ない大男を信じて待つ必要もないのだ。湿った人差し指で顎下を掻いてやると、金之助はやわらかな白いお腹を出して寝転んだ。笑いたかったはずなのに、うまくできない。こわばった頬がわずかに痙攣しただけだった。俺は奥歯を強く噛み締め、以前よりずっとふっくらしたお腹を撫でる。「じゃあな」
ケージを閉めて立ち上がり、須東零四風のサインが入った青いキャップをかぶる。ここへ来る前に着ていた衣類はすべて、琴乃の手によって洗濯かクリーニングへ出されていた。しかし何も伝えていないのに、このキャップだけはそのままにしてくれた。それでもキャップへ染みついていた爺さんの匂いは薄れ、わずかに琴乃の好きな御香が香った。
書置きのようなものをすべきか迷ったが、琴乃の濡れた頬を思い出して止めた。ソファの上へ借りていた部屋着を重ねる。年季の入ったそれらはどう見ても男物だ。いくら琴乃の背が女のわりに高いとはいえ、俺が着られるサイズは大きすぎる。それがだれのものであろうと、今となってはどうでもいい。俺はリビングを後にした。
廊下へ出た途端、甲高い鳴き声と金網を引っ掻く音が追いかけてきた。金之助が呼んでいる。普段あまり鳴かない金之助が繰り返し俺を呼んでいた。ふと足が止まりそうになったが、躊躇いを振り払って玄関口の前へ立つ。
靴箱から琴乃が買ってくれた真新しいスニーカーを出した。左足を入れたとき、背後からフローリングを滑る爪の音が聞こえた。はっと息を呑んで振り返れば、白黒の小さな毛玉が駆けて来る。そして右足のスニーカーの紐へ噛みついた。金之助が引っ張るので、蝶蝶結びがほどける。戯れているのかと思ってたしなめたが、自分より大きなそれを運ぼうとしているようにも見えた。
「父さん、どこ行くの」
「ううん、ああ、まあ、ちょっとな……」
父親の煮え切らない返事と極り悪そうなだらしない笑顔を思い出す。「ちょっと」からもう八年が経つ。父親が持っていた大きな荷物には、母親がひっそり貯めていた俺の学費が入っていた。あいつが俺の人生からいなくなるのは清清したが、あの日から少しずつ母親は変わっていったように思う。朗らかで逞しかった母親まで、あいつは「ちょっと」で持って行ってしまったのだ。
どこからか煙草と香水の混じった甘い匂いがして、俺はその場へ蹲った。寒くもないのにダウンコートを手繰り寄せ、上半身を抱え込む。そうでもしていないと身体が欠壊し、真っ黒い濁流に飲み込まれてしまいそうだった。靴を履いていないほうの足へやわらかなぬくもりを感じ、見ればそこへ金之助が寝そべっている。どこへも行かないと言おうとして、喉が詰まった。熱くて重い一粒が右腕に落ち、くぐもった音を立てた。ダルさんの上質なコートは水をよく弾く。
