【中編小説】金色の猫 第15話(全33話)#創作大賞2024
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埃と脂にまみれてまだらに光っていたダウンコートは、まるで新品のようになって俺のもとへ帰ってきた。クリーニング店の店名が入ったビニルカバーを慎重に外し、見事に息を吹き返したダウンの感触を味わう。玄関脇のスタンドミラーの前へ立ち、おもむろに袖を通した。
鏡へ映る上質なコートを眺めながら、ある先輩ホストを思い出していた。その人はなぜか妙に俺を可愛がった。家電や洋服などからハイブランドのバッグや貴金属に至るまで、お古を譲ってくれた。お古と言っても、どれも数回使っただけの物ばかりだった。生活がままならなくなって金になりそうなものはほとんど手放してしまい、最後に残ったのがこのダウンコートだった。
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源氏名をSARAB¥E DULLと書き、〈サラバ ダル〉と読む。はじめて聞いたとき、ラッパーみたいだと思った。ダルさんはうちの店にはめずらしい、酒も飲まない売掛もしないホストだった。
その営業スタイル以上に尖っていたのが服装だ。俺がホストをはじめた当初から、すでにちらほら私服で接客をする店はあったものの、うちの店は今まで通りスーツを着ていた。
しかしダルさんだけは襟元に大きなリボンのついたドレスシャツや、種種の動物が犇き合うカーディガン、たまにスーツを着てもベルボトムのデザインスーツだった。(もちろん俺にこれらの着こなす感覚があるはずもなく、譲り受けるのは丁重にお断りした)。
それでも売上は安定してナンバー入りをキープしていたので、ダルさんだけにそれが許されていた。というより目が合うと石にされてしまいそうな、そういう怪物まがいの独特な雰囲気を彼は持っていて、ほとんどそれに支配されていたように思う。俺がホストになれたのも、この奇妙な先輩のおかげだった。
そもそもホストになりたかったわけじゃない。背が高いだけで別段顔がいいわけでもないが、高校ではそれなりにモテた。今思えばあれは凌のおこぼれだったのかもしれない。最寄り駅が同じだった彼は地元でもずば抜けてイケメンで、そこそこ人気のあるエモ系バンドのボーカルをしていた。
俺たちは高校を卒業しても、就職せずにふらふらしていた。文字通りふらふらしていた俺とは違い、凌は複合書店でアルバイトをしながらバンドを続けていた。ある日ふいに、凌がバンドをやめてホストになると言うので、俺は面接へついていった。彼はあっさり大手グループの面接に合格し、そのまま有名ホストクラブへの所属が決まった。
凌と新宿を歩いていたら、俺もちらほらスカウトをされた。ホストとして見出されたと勘違いしたわけではないが、学歴も資格もない俺でもこれなら稼げるんじゃないかと安易に思った。凌へのメッセージが既読にならなくなったころ、個人経営の小さなホストクラブにそっと応募した。
そのきらびやかな空間は正直言って気詰まりでしかなく、軽い気持ちで面接へ来たのをはげしく後悔した。大きな鏡にはビロードの椅子へ猫背で腰かけた、みじめな大男が映っている。鼻腔を刺激する強烈な香りに、堪え切れず何度か大きなくしゃみをした。
しどろもどろ面接を受けていたら、グレーのプリーツスカートを履いたダルさんが現れた。「いいんじゃない」ダルさんは俺を一瞥し、不敵に笑った。店長のなんとも形容しがたい複雑な表情を、今でも鮮明に覚えている。
「え? なんでって、よく覚えてないけど……退屈だったんじゃないかな。君みたいな陰気なやつ、当然落ちるだろう? なら、そうしないほうが愉快だ」
あとでダルさんに訊ねたところ、こともなげにそう言って高らかに笑った。
薄い唇から覗く細かい歯は不気味なほど綺麗に整列し、犬歯は鋭く尖っている。陰気なんてはじめて言われたが、たしかにそうだったのかもしれないと、俺はそのときに気がついた。まぶしいだれかの向かいに突っ立ち、ただ漫然と両腕を広げ、その光を浴びていただけだ。
「ああ、ダイモにしよう。一日の“DAY”にひと月の“MO”でダイモ。よくない?」
はじめて店へ出た日に便器を磨いていたら、瑞瑞しい柑橘の香りが俺を包んだ。泡の付いたブラシを持ったまま振り返ると、ダルさんが壁に寄りかかって煙草を吸っていた。
「ダイ……モ……すか」
SARAB¥E DULLと比べて、正直テキトーすぎやしないかと思った。「橙色の“Moon”という意味もあるのさ、いいだろう」目尻の下がった淡い緑の瞳に捉えられ、つい承諾してしまった。
かくして俺の源氏名は〈DAYMO〉となり、ダルさんは「名刺発注しておくねん」と満足気に踵を返した。黒いチュールリボンが神様蜻蛉の翅のようにひらり、扉の向こうへ消えた。
少したのしんでいるふうでもあったが、ダルさんはそうやって時折俺を気遣ってくれた。
指名が入ったら必ず俺をヘルプにつけてくれたし、俺が指名されてダルさんの手が空いているなんていう稀有な日には、逆にヘルプへ入ってくれた。
他のキャストと比べ、ダルさんのヘルプは気楽だった。酒を飲まなくていいのはもちろん、自虐をして笑いを誘ったり、客とダルさんを大袈裟にほめそやしたりする必要もない。「ああいう」顎をしゃくって派手に盛り上がっているテーブルを示し、「馬鹿みたいなのはやらなくていいよ、僕は全然好きじゃない」そう冷ややかに語っていた。
ただひとつ困ったのは、ダルさんに本気で恋をしてしまっている客の多さだ。泥沼ならぬダル沼とキャストの間で揶揄されていた。決してダルさんが客を恋人のように扱う〈色恋営業〉や、客と身体の関係を持つ〈枕営業〉をしていたわけではない。
嫉妬に狂った客にネットの掲示板へあらぬ噂を書き立てられもしたが、近くにいた俺が見る限りそういうようすは微塵も感じられなかった。むしろダルさんは客から「好き」と言われても、「うん。でも僕のほうがずっと、僕を好きだ」と答えるような男だった。むしろそれが原因かもしれないが。
しかし俺が入店して一年も経たないうち、ダルさんは店を辞めてしまった。
ある日出勤したらダルさんのパネルがなくなっていた。他のキャストは慣例通り気障にポーズを決めているのに、額縁からお道化た表情を覗かせている。あの奇天烈なパネルを見落とすわけない。
「存分に愉しませてもらったありがとう、だってさ」店長は苦笑交じりにダルさんの口調を真似た。
忘れもしないそれはクリスマスイベント前の一年でもっとも忙しい時期で、目の上の瘤とはいえ稼ぎ頭を失った幹部たちは絶望していた。
ふいに騒騒しく押し掛け好き勝手して、気が変わったら音もなく去って行く。
「俺の周りは気まぐればっかりか」
生成りのショップバッグへ少ない荷物をまとめながら、小さく吐き捨てた。
寝室の棚に重なった二冊の本へ伸ばした手を、はたと引き込める。振り返ったベッドには皺ひとつない琴乃の枕と、俺を模った羽毛布団があった。それを剥がし、白いシーツを丁寧に伸ばす。琴乃からすれば、俺も同じなのかもしれない。俺は今日、この部屋を出て行こうとしていた。
