【中編小説】金色の猫 第14話(全33話)#創作大賞2024
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「待って、美味しすぎる。やだ……今まで一生懸命料理していたのがばかみたい」
琴乃は口に手を当て、食べかけの料理を見つめる。
「そんなふうに言うなって。琴乃の料理もすげえうまいよ」
ふいを突かれたように俺の顔を見上げ、彼女は赤く染まった口角を上げた。
そして、とろとろのスクランブルエッグが絡んだパスタを、フォークでおもうさま巻き取ると、口いっぱいに頬張った。
「ふわわせ」
「なんて?」笑いながら、大袈裟な口調で聞き返す。
二重から目尻へ緩やかに伸びた皺へ母親のそれが重なった。
〈オムナポリタン〉は料理の苦手な母親が、ゆいいつまともに作れた料理だった。まだ俺にとってきちんと〈母さん〉だったころ、機嫌のいい日にはいつもそれを作ってくれた。しっかり火の通った薄焼き卵でウィンナー入りのナポリタンを包んだ、ちょっと酸味の強いオムナポリタン。
薄焼き卵をスクランブルエッグに、ウィンナーをベーコンに、醤油とウスターソースを加え、より濃厚にアレンジしたのが“俺の”オムナポリタンだった。小学校が休みの日、夜勤明けの母親へ作ったのが最初だった。
「私のより美味しいからもう作らない」拗ねたように口を尖らせたあと、母親は笑った。それを真に受けて、少し寂しかったのを覚えている。
それからたびたびリクエストしてくれるようになり、寂しさはやがて喜びへと変わった。それでも舌はあの酸味を覚えていて、時折むしょうに欲しくなる。しかしそれはもう、かなわない。
「なあ、なんで、きん、なの」
「きん?」琴乃が間の抜けた声を出す。
俺はケージの一階で、青い餌皿へ頭を突っ込む猫に目をやった。
「ああ! そう、名前! まだ、仮よ。病院の問診票に名前を書くところがあったから」
「うん、それはいいんだけど、なんで、きんなのかなあって」
琴乃の唇をティッシュで拭い、小さく笑った。褐色の瞳がわずかに震え、言いにくそうに「金……魚……の」と口を動かした。
「金魚?」
「そう、小さいころ飼ってた、金魚の名前」
金魚だって! 弾けたように笑ってしまった。「だから! か、り、なの! あとで相談しようと思ってたよ! ちゃんと」横から俺の腕を掴み、琴乃は語気を強める。
「猫に魚の名前つけるのってなんだかな。ヒトをベーコンって呼ぶようなもんだろ」
赤く染まった皿に転がる分厚いベーコンに、フォークを突き立て口に運ぶ。琴乃は呆れたように俺を見上げ、「ベーコンはいる、フランシス・ベーコン。イギリスの哲学者」と小さく漏らした。
そしてカップに残ったほうれん草のポタージュを飲み干し、皿を手に立ち上がった。キッチンへ向かう彼女の後ろ姿を目で追う。ブランケットの上でまるくなっている猫へ「きんちゃん」と彼女が甘い声で呼びかけると、猫がわずかに頭を擡げた。「ほらね」と言わんばかり、彼女が得意気な顔で振り返る。なんだよ、俺に決めさせる気ないじゃんか。
「うん、きんか。そうだ、きん……きんだね」
クッションの下を探り、読みかけの『三四郎』を開いた。そこへ挟まった金色の猫を見つめる。フィンガーチョコの包紙から生まれた、小さな小さな猫。実を言うと俺も、動物病院で〈きん〉の二文字を目にしたときから、その名を彼に託したいと思っていた。
彼女がそう名付けた理由がなんであれ、その名にあの日夢で見た金色の星をおもわずにはいられなかった。それが琴乃によって無作為に授けられたのだとしたら、きっとなるべくしてそうなったに違いない。
「え、あれっ、それって、夏目漱石?」
いつの間にか琴乃が横に立っていて、腰を屈めて古本の色褪せた背表紙を覗き込んでいる。俺はにわかに本を閉じ、気のない返事をした。「へえ、私も好き……三四郎かあ……懐かしい」落ち着いた調子でそう言いつつ、彼女は磨硝子へ街灯の滲む高窓へ目をやる。
「夏目……金之助」
濡れた布巾でテーブルを拭く、彼女の横顔が言った。「金之助?」尋ねたら、間髪入れずに「金之助っていうの。夏目漱石の、本名」と返ってきた。
「金之助にしない? 彼の名前。金之助で、きんちゃん」いかにも素晴らしい提案とばかりに、琴乃は喜色満面で振り向く。
舌先でたしかめるように愛猫を語る爺さんの声が、鼓膜の奥から零れ落ちる。——昔、好きでな……夏目漱石が。ほれ、漱石みたいな口髭があるように見えるだろ。それで——幸せそうに眠っている、鼻下に黒いぶちのある猫をみた。まばゆい金色の星が俺の真ん中へ勢いよく落ちてきた気がして、俺はひとつ身震いした。「どうした? 大丈夫?」背中へ添えられた掌の重みが、俺を今へ引き戻す。
「金之助、いいじゃん。金魚のきんちゃんより、ずっといい」
「もう、それ、言わないで」
さっきまで優しく撫でてくれていた手が、背中を強く叩いた。逃げようとする彼女を掴まえ、おもいきり抱き寄せる。ふたりの笑い声がリビングに反響し、うとうとしていた金之助が跳ね起き、水の入ったボウルを盛大にひっくり返した。
その夜、琴乃はめずらしくウイスキーをロックで飲み、ひどく酔っ払っていた。もともと寝酒をしないと眠れないたちらしいのだが、それにしても深く飲みすぎだと思った。ソファへ溶けている彼女を抱き上げようとしたら、その濡れた唇が俺の下唇へ強く吸いついた。
「ねえ、どこにもいかないで」
見ると淡い光に浮かぶ、彼女の白い頬が濡れていた。尖った肩甲骨を掌へ感じながら、小さな躊躇いに気づいた。それを見て見ぬふりをして、彼女の薄い上半身を無言で抱き締めた。身体へ染みついた置いてけぼりの心細さが、喉元まで出かけたその場しのぎを飲み込ませた。それがいかに残酷かを知っているから。
