【中編小説】金色の猫 第13話(全33話)#創作大賞2024
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池袋駅から十分ほど歩いた場所にある、雑居ビルに挟まれた小さな病院へ猫は入院していた。今日ついに彼が退院する。仕事へ向かう琴乃と一緒に家を出て、ひとり彼を迎えに来た。猫が男だというのを、琴乃から聞かされて知った。ついでに金玉を〈ふぐり〉と呼ぶのも、同時に知った。
出入口を入って右の窓際に、白い椅子が五脚並んでいる。真ん中には高そうなダウンジャケットを羽織った女性に連れられた、やけに大きいプードル(だろうか)がいて、この世の終わりのような顔をしてこちらを見ている。俺は気まずさと真新しいキャリーを抱え、壁際の席で名前が呼ばれるのを待った。
はじめて琴乃の家で過ごした翌日、ふたりで猫の生活に必要なものを買いに出かけた。琴乃が借りたレンタカーで、むろん運転は彼女である。ことごとく彼女まかせで多少面目ない気持ちはあったものの、それよりひさしぶりに買い物へ出かける高揚感が勝った。
ショッピングモールのフロアマップの前で、真剣に昼食を吟味する俺を見て、「最後の晩餐じゃないんだから」と琴乃は笑った。ふと俺の胸に元の生活へ戻る選択肢が灯っているのに気づく。
このまま成行きに任せていたら彼女のヒモになってしまいそうで、というか既にその先端を掴みかけていて、すっかりそうなってしまうのがこわかった。
「神田さん、神田さん、神田……」
巻き髪を後ろでひとつに束ねた丸顔の女が、俺の顔を不安そうに覗き込んでいる。慌てて立ち上がったら、プードルが勢いよく吠えた。
「こら、バッハ! 吠えないよ」飼い主が叱り、俺に頭を下げる。
たしかにカールした白い垂れ耳が音楽室の肖像画みたいだと感心しながら、俺は女の背について診察室へ向かった。
はじめて入る動物病院の診察室に、こころもち緊張していた。当然だが人間のそれとは違い、中央に縦長の診察台があり、その横に禿頭の恰幅のいい男が座っていた。獣医師らしきその男にたどたどしく会釈をすると、彼は柔和な笑みを浮かべた。
ほどなくして扉が開き、ショートヘアの看護師が姿を現した。彼女の後ろから数名の看護師が、顔を寄せ合ってこちらを見ている。ショートヘアが鋭い視線できつと睨めつけると、小魚のように一瞬で扉の向こうへ散らばって行った。気になって獣医師を窺ったが、彼は変わらず菩薩のような佇まいでそこにいた。
「きんちゃん、パパが迎えにきてくれたよ」
胸に抱いたブランケットを覗き込むようにして、ショートヘアの看護師が甘い声を出す。見覚えのある灰色のブランケットから、小さなふわふわの白い手が覗いている。
猫!!! 逸る気持ちを抑えてしずかにブランケットへ手を伸ばす。人差し指に濡れた薄桃色の鼻先を感じ、黒ぶちの猫が勢いよく俺の腕をよじ登ってきた。
「え! すごい! この子うちのスタッフだれに対してもシャーシャーだったのに」
背中へ黒ぶちの子猫を乗せる俺に、看護師が羨望の眼差しを向ける。「たしかに爺さんには懐かなかったな」思わずつぶやき、身体の真ん中を湿った風が吹き抜けるのを感じた。「お祖父様……? へえ、そうなんですね」看護師が元野良猫を見つめながら、不思議そうに首を傾げた。
でしなに琴乃から託されたA4のコピー用紙には、獣医師へ確認して欲しい項目が箇条書きでずらりと記されていた。俺はそれを確かめつつ、必要であればメモを取って、熱心に獣医師の話を聞いた。しまいにはあの菩薩のような獣医師から、「まあ、なにかあったらいつでも相談してください」とあしらわれてしまった。
キャリーから聞こえるか細い鳴き声に、バッハは興味津津だった。可哀想に猫はキャリーの奥へ縮こまり、会計の準備が終わるのを待たなければならなかった。俺たちが呼ばれるのと入れ違いに、バッハは診察室へ引き摺られて行った。
猫はここぞとばかりにキャリーから身を乗り出し、尻尾をまるめて怯える憎っくき敵を高みから見下ろした。「僕はちっともこわくなかったぞ。だらしないやつだな」生意気な口髭がそう言っているように見えた。
動物のシルエットがデザインされた診察券には、琴乃の名前と並んで〈きん〉と印字されていた。診察室で看護師がしきりに猫を「きんちゃん」と呼ぶので不思議におもっていたが、なるほどそういうことかと合点が行った。
いったいどうして〈きん〉なんて名前にしたのだろう。赤いネクタイを締めた猫が、白猫と喧嘩しているところを想像し、止めたら痛烈な悪口を言われるのかもしれないと思った。
会計を終えて自動ドアの前に立つと、受付カウンターのあたりがにわかに騒騒しくなり、振り返ると病院の女性スタッフが集まっていた。今にもドアが閉まらんというとき、甲高い声が「……に似てない?」と興奮気味に口走った。
それはホスト時代にも幾度となく耳にした中堅俳優の名前だった。個性派として様様な映画やドラマへ出演しているものの気怠い顔立ちで、いわゆるイケメンの部類ではなかったはず。女たちの囀りを背中に感じながら、たまたまファンだったのだろうかと首を傾げた。
先日までの風貌だったら、目を背けられていたに違いない。琴乃が見立ててくれた服装のおかげで、だいぶ身ぎれいに見えたはずだ。むしろホストのころよりも洗練されているようにすら思える。キャリーを覗き込み、少しふっくらして毛艶のよくなった猫に、「こんなことってあるか」と話し掛けた。
