土井晩翠の詩「荒城の月」から学ぶ - “連” 同士の繋がり -
このシリーズでは近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、「詩のどこが良いのか」「どう書けば詩なのか」を探していく。
どの記事も一本で完結している。
今回は土井晩翠氏の詩「荒城の月」。
唱歌なので、作曲者の滝廉太郎氏に目が行きがちである。
しかしこの歌は、日本の七五調の詩と西洋式の音楽が融合した初めての作品。
晩翠氏を抜いては成り立たない。
はじめに、晩翠氏について
晩翠氏は明治4年生まれ。
活躍した時期は、島崎藤村氏と併せて藤晩時代と呼ばれている。
12月5日生まれということもあって、日付の近さで今回の題材とした。
「晩翠通り」という通りがあるくらいなので、宮城県仙台市に所縁ある方々には、馴染み深いかもしれない。
(島崎藤村氏も仙台に下宿し「若菜集」を執筆したため、「初恋通り」なるものがある。仙台は晩藤時代の聖地だ)
仙台の地下鉄でも、たしか「荒城の月」を聴くことが出来た。
詩「荒城の月」
春高樓の花の宴
めぐる盃影さして
千代の松が枝わけ出でし
むかしの光いまいづこ。
秋陣營の霜の色
鳴き行く雁の數見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光今いづこ。
いま荒城のよはの月
變らぬ光たがためぞ
垣に殘るはただかづら
松に歌ふはただあらし。
天上影は變らねど
榮枯は移る世の姿
寫さんとてか今もなほ
あゝ荒城の夜半の月。
一見、難しそうに見えるが、じっくり読むと理解できる。
以前扱った蒲原有明の「日神頌歌」のような、非日常的な用語は少ない。
それもそのはず、この詩は1901年、中学生のために作られた唱歌であるから、当時の12歳〜17歳でも分かる言葉で書かれている。
(1901年頃中学生だった文士は夢野久作氏や、「赤とんぼ」の童謡で名高い三木露風氏などがいる。)
中学生にも分かる歌ではあるものの、“春” “高楼” の二語や “秋” “陣営” の二語が続けて書かれており、ルビがないと一つの単語と勘違いする人が出てきそうである。
これは漢詩の雰囲気を受け継いだ書き方の一つで、
城春にして草木深し
春眠暁を覚えず
のように、接続詞を省略する詩は晩翠氏に限った話ではない。
女性的な詩人と言われた島崎藤村氏 (代表作:初恋) に対して、晩翠氏が男性的な詩人と言われるのは、この漢詩に倣った書き方のためだといえる。
対になる一・二連目、三・四連目
一・二連目は昔の回想、
三・四連目は今の状況と読める。
しかし、言葉ひとつ取るとそれだけではなくなる。
一連目の「いま」・二連目の「今」。
三連目の「よは」・四連目の「夜半」。
私にとって、見覚えがある文字遣い。
一年前の記事、蒲原有明の詩から思い出せることは、
益荒男ぶり・たおやめぶり
漢字を使うと男性的で堅固に、
ひらがなを使えば女性的で柔和に。
つまりは対になるのである。
一連目は春、士気と生命力に溢れる季節。
反対に、二連目は秋、厳しく寂しい季節。
三連目は変わらない月に焦点を当てた上で、ひらがなを多用して、荒々しさの去った戦の後を表現している。
反対に、四連目は変わりゆく世に焦点を当てた上で、漢字を使って月への呼びかけの強さを表している。
対というのは “正反対” という意味のほか、二つで一体という意味にもなる。
陰と陽があって一つのものが完成するように、連も二つで一セット。
祝詞や、何かの儀式に必要な詠唱のようで、面白い構造になっている。
繋がっている奇数連、偶数連
繋がっているのは、対になった連だけではない。
前述の分け方から、益荒男ぶりの連(偶数)同士、たおやめぶりの連(奇数)同士でも繋がっていることが分かる。
一連目の「花の宴」は三連目の「かづら」に変わり果て、縁起の良いはずの松は嵐に吹かれている。
三連目そのものは不変を表し、四連目の焦点を “栄枯盛衰” に当てる役割であった。
それが、一連目と続けて読むと “栄枯盛衰” の一連の流れとして読めるようになる。
二連目は全体的に、月の光が何もかも照らしている描写となっている。
四連目は、世の中がその当時のように、月に照らされ続けていると読める。
四連目を二連目とペアにした時、一貫して荒んだ風景が続く。
そして一連目と三連目のペアと交代するように、 “不変の月” を表す。
組み方次第で、どの連が、どちらを描写するか交代しうる。
まるでパズルのような詩である。
二つのテーマ(この詩の場合は “不変の月” と “地上の栄枯盛衰” )を、偏りなく据えることで、このような詩を書くことができる。
考察 : 「いづこ」と問いつつ「変わらぬ光」
いまいづこ、と問いながら、後半では月の光は変わらないと詠っているのは何故だろうか。
断言できる答えには、この記事の投稿日(2025年12月7日)になっても辿り着けなかった。
強いて唱えるならば、一連目と二連目の “光” が月の光ではないという説がある。
一連目は花明かりや宴の明かり、二連目は戦火など。霜は自力で発光できないので、やや考えにくい。
ただ、火では霜は溶けるし、“差し添う” という表現が優しすぎる。
やはり、月以外を光源とするのは考えづらい。
では月ではなく、物理的ではない “光” である可能性はないだろうか。
栄光、活気、誇り、尊厳、潔白など、人の光という説である。
一・二連目は人の光。
三・四連目は月の光。
そうであってこそ前半二連と後半二連で一対の、ひとつの詩になるという絡繰りではなかろうか。
今のところ私はこの説が最も腑に落ちているが、他の考察も探そうと思う。
まとめ
今回は漢詩に倣った形式。
前半の二連で一対、後半の二連で一対、さらに前半と後半を併せて一対と見ることができた。
さらに益荒男ぶり・たをやめぶりの連同士を括ると、
益荒男ぶり同士のペアは、たをやめぶりの連が個々で持っていた “一貫した景色を描写する” 役割へ。
たをやめぶり同士のペアは、益荒男ぶりの連が個々で持っていた “廃れを描写する” 役割へ。
という具合に変化する、大変興味深い構造になっていた。
「荒城の月」のように、過去から現在へを描く絵巻物のような詩は、今回のような方法で分解できるか、一度立ち止まってみようと思う。

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あると、やる気が出ます。
《今回の参考・引用》
・土井晩翠「天地雨情」
・杜甫「春望」
・孟浩然「春暁」
電子書籍に収録予定です

本記事を書いてから1年以上を過ごした私が、加筆修正して本にまとめ直します。
1巻や2巻もぽつぽつ、お手に取って頂けているようで嬉しいです。
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(2024年10月投稿・2117文字)
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