山村暮鳥の詩「ある時」から学ぶ - 共感力と擬人法 -
このシリーズでは近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、「詩のどこが良いのか」「どう書けば詩なのか」を探していく。
どの記事も一本で完結している。
今回から二記事連続で、山村暮鳥氏の詩から学んでいく。
素朴にメモする詩人・山村暮鳥
山村暮鳥氏は、萩原朔太郎氏や室生犀星氏らと共に「人魚詩社」のメンバーだった詩人である。
「いちめんのなのはな」で有名だが、それ以外にも小さな作品が多い。
今回取り上げる『雲』という詩集は、「ある時」など同じ題の詩が沢山収録されている。
このことから暮鳥氏にとって詩は、作品というよりは、思った事のメモや独り言に近いものだったことが窺える。
この記事を書いたのは、今月からとある文学館で暮鳥氏の展示を行うと知ったからだ。
その展示のフライヤーに、詩「ある時」が載っていたので、取り上げてみようと思った。
詩「ある時」
雲もまた自分のやうだ
自分のやうに
すつかり途方にくれてゐるのだ
あまりにあまりにひろすぎる
涯のない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひよつこりとでてきませんか
共感力と想像力から生まれる詩
素直な重ね合わせ
雲と自分を比べるようなもの、雲と自分以外の何かを描くもの、雲だけをうたうもの、そのような詩は多い。
しかし雲と自分とを重ねる詩は、あまり無い。
これは一個人の意見だが、「自然は美しいもの」というレッテルによって、それと自分とを重ね合わせるのは些かナルシストだという風潮が薄らあるのかも知れない。
実のところ風潮ではなく言葉の使い方ではないだろうか。
「自分は雲のようだ」と「雲も自分のようだ」の違いが分かるかそうでないかであって、山村氏は分かる人間だった。それだけのようにも思える。
素直に似ていると言える、一種の共感力が強いことも感じられる。
さりげない比喩、擬人法
「蒼」という字は今でこそ人名に使われるが、蒼白、鬱蒼などネガティブな青を表す時にも使われる。
途方に暮れている状況に相応しい漢字なのである。
漢字を変えるだけで、空の青が青ざめた顔色のように思えてくる。
そればかりではない。老子も比喩や擬人法ではないかと私は思った。
老子は白髭を蓄えた哲学者。その白髭は、雲の一部なのではなかろうか。
山村氏は雲(自然)を「美しいもの」としてではなく、「摂理の中にあるもの」として淡々と見た。
その結果が、哲学を説く老子なのだと思われる。
にこにことして出てきてほしい、それはつまり老子であれば落ち込むほどの状況ではないと知っているだろう、という風に感じ取れる。
安心したいという気持ちを、間接的かつ軽やかに表現している。
まとめ
語順を変えるだけで、言葉の意味や印象はだいぶ変わる。
山村氏の場合は相応しいように語順を変えたのではなく、自然と自分の心に相応しい語順で表現できたと思われるが、私は意識するところから始めようと思う。
そして今まで、ひらがなと漢字の使い分けには触れたが、漢字の使い分けにはさほど触れてこなかった。
漢字一文字で比喩や擬人法になる技も、頭の隅に置いておきたい。

《参考・引用》
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