室生犀星の詩「罪業」から学ぶ - 内省・承認欲求 -
このシリーズでは近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、「詩のどこが良いのか」「どう書けば詩なのか」を探していく。
どの記事も一本で完結している。
前回の記事に引き続き、室生犀星氏の詩を取り扱う。
(前回とこの記事はそれぞれ独立している)
取り扱う詩は「愛の詩集」の「罪業」という詩。
「故郷にて作れる詩」という詩群のなかの一作である。
今回は詩の技法や習慣というより、詩とは何かということを考える記事だと思う。

罪業
自分はいつも室に灯明をつけてゐる
自分は罪業で身動きが出来ない気がするのだ
自分の上にはいつも大きな
正しい空があるのだ
ああ しまひには空がずり落ちてくるのだ
詩とは「自分語り」?
室生氏の作品には、この詩に限らず「自分は」「自分が」「私は」「おれは」という書き出しがよく見られる。
つまりは自分語りに近いものである。
私はこの単語に、“隙自語”とも呼ばれる社会的なマイナスイメージを感じるが、室生氏の詩に嫌悪は感じない。
では詩と、インターネットで嫌われる類のあれらと何が違うのだろうか。
答えをひとつ挙げるとすれば「詩は共感されることを目的としていない」と思う。
動画サイトのコメントでもSNSの書き込みでも、自分語りを書く目的は「見て欲しい・共感が欲しい」というものが少なくない。
私も時々そういう気持ちで書きこむことがある。
リアルタイムに誰かが返信できる仕組みだからこそ、誰かが同じ気持ちになってくれるかも、と期待して書く人がいて、それが書き込める場所の存在意義でもあるのだと私は考えている。
対して近代の詩は、読者の顔や年齢をツイートで推測することもできないし、読者がどのくらいいるかも知り得ない。
共感する読者たちはいるだろう。
しかし彼らからの賞賛が作者に届くとすればほんの一部で、賞賛が届くこともきっと作者は狙っていない。
だからこそ好い意味で自分 (や自分を取り巻く環境) に精一杯で、作品が「自分語り」のようなものでも純粋な芸術となるのだと思う。
意識を変えねばならない
では賞賛を求めないのに、どうして不特定多数に注目される詩集として出版したのか。
そう考える人は私のように自分語りをしてしまうタイプなのではないだろうか。
そもそも詩集の出版動機は色々あると思う。
その中に単に書いていたものが溜まったからという動機もあるはずだ。
半年ほど前に書いた、山村暮鳥氏の詩についてのnoteにも記したが、その瞬間の気持ちをメモのように書き残すタイプの詩もあるのだ。
他人の創作物のことを悪く言う権利は私に無いが、率直に言うとインターネットの詩には人を動かしたがっている詩が増えている気がする。
どこか自己啓発本のような詩、ありがちな人生相談に乗っているような詩。
都合の良すぎる励まし文句。
はたしてそれは、詩なのだろうか。
少し、自作を含めて見つめ直してみる必要があると、私は考えている。

「♡」押せます。
読了の印があると嬉しいです
《今回の参考・引用》
こちらの記事もおすすめ
・自分および、自分を取り巻く環境に精一杯な詩の例
(2024年11月投稿・2123文字)
いいなと思ったら応援しよう!
この記事を保存したいとお思いの方、応援いただけますと幸いです。
頂戴したチップは同人誌「さくさく」への寄稿費など、文芸活動に充てます。