室生犀星の詩「秋くらげ」から学ぶ - 繰り返す・対象を “上下させる” -
このシリーズでは近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、「詩のどこが良いのか」「どう書けば詩なのか」を探していく。
どの記事も一本で完結している。
今月からまた近代の詩や短歌から、うたごころを吸収していこうと思う。
心機一転はじめの詩人は室生犀星氏。
「人魚詩社」の素朴な詩人・室生犀星
詩から小説の道へ進んでしまったが、その前は萩原朔太郎氏や山村暮鳥氏と共に「人魚詩社」の中心として活動していた人物である。
今回は室生氏の「愛の詩集」から「秋くらげ」を取り扱う。
このような詩は私にとって非常に読むのが難しい。
蒲原有明氏らとは異なり散文詩的で「字数が~」などと言えないからである。
だからこそ今一度、真剣に読んでいく。
秋くらげ
山には遠い海岸に
くらげはまつさをに群れてゐた
くらげは心から光つてゐた
あるものは岸辺に打ちあげられ
松並木はこうこうと鳴つてゐた
くらげにはくらげの可愛さがあつた
私はそれをつくづく眺めてゐた
山はみな高く海べに映つて
ときをり雪もふつてゐた
くらげは眺めて居れば居るほど
あはれな いき甲斐のないもののやうな気がした
くらげ以外に感覚を向ける行
「あるものは…」と「松並木は…」の行は、他の行に比べてくらげに集中していない。
けれども松並木の音に気が逸れることで、むしろ息絶えたくらげの無力さが映える。
これはその前の行「くらげは心から光つてゐた」の対比とも受け取れる。
この技法は小説や映画の終盤でも使われる事が多いと思う。
私が思い浮かべたのは映画「恐怖のメロディ」のラストシーンである。
主人公を脅かした女が崖から海へ転落、浮いている様子から徐々にズームアウトし、崖と海とだけの穏やかな景色でエンディングが始まる──というものだ。
つまりは余白の美である。
話を本詩に戻すと、室生氏は余白の美をあえて序盤に持ってきている。
あまり長い詩でないが、ゆったりと感じさせる構成になっている。
繰り返し
「くらげ」という言葉の繰り返しに、ある気づきがあった。
生きていると思しき方は「くらげ」、息絶えているような方は「もの」と書かれている。
私の感覚にすぎないが、くらげの「くら」という音が繰り返されることで、揺れて漂っているくらげを感じられるのではないだろうか。
揺れている、や浮かんでいる、など動きの描写が無いのは「くらげ」という音の連続で表現できたからなのかもしれない。
「下げる」ことでくらげを愛する
くらげから視線が外れる行は、序盤以外にもある。
「山はみな……」と「ときをり……」の2行である。
恐らくこのときのロケーションは以下の感じだろう。

ここでくらげ以外の描写がある行を読むと、
「こうこうと鳴つてゐた」
「山はみな高く」
と、高さが強調されている。
音を表す「こうこう」は通常、漢字で書くと「鏗鏗」であり、金属がぶつかって高鳴る様子を表す。
ここから「心から光つてゐた」はずが、「いき甲斐のないもの」という認識に変わっているのもまた、くらげへの愛おしさの表れと読み取れる。
周りを高く描写してくらげを下げることで、庇護欲が湧くような、あわれないじらしさが表現されている。
まとめ
このシリーズでかなり最初に取り扱った、三好達治氏の詩のように、目線誘導のある詩であった。
あの時と違うのは、あちこち見回すのではなく、メインで見ているものがあるということ。
メインを引き立てるためにあえて感覚を外すというのは、室生氏の親友である萩原朔太郎氏と対になっている。
萩原氏は「ばくてりやの世界」などで対象を凝視するようなものを書き、凝視しすぎて思い悩むような繊細さがある。
対して室生氏は周りにも気を向ける大らかさがある。
きっと二人が全く同じでは、二魂一体にはなれなかった。対であるから一体になれた詩人たちなのだろうと思う。

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《今回の参考・引用》
本記事は、加筆修正をした上で電子書籍に収録しています。
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