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萩原朔太郎の詩「卵」から学ぶ - 想像と現実の混在 -

このシリーズでは近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、「詩のどこが良いのか」「どう書けば詩なのか」を探していく。
どの記事も一本で完結している。

“おわあ、こんばんは” で有名な詩集「月に吠える」

さて、11月1日は口語自由詩の父・萩原朔太郎氏の誕生日である。

普段は日曜日の投稿だが、合わせて少し早めに小さな記事を書いておこうと思う。

彼といえば詩集「月に吠える」が有名で、とくに “おわあ、こんばんは” という一節がある詩「猫」は知名度が高い。

彼は詩集「月に吠える」の序文で
「なぜ嬉しいかは共有できるが、どのように嬉しいかは完全には共有できない。だから詩は孤独だ」
という趣旨の文章を書いている。

前回の記事で述べた、

好い意味で自分 (や自分を取り巻く環境) に精一杯で、作品が「自分語り」のようなものでも純粋な芸術となるのだと思う。

入山夜鷸「室生犀星の詩「罪業」から学ぶ-自身との語らい・承認欲求-」

という部分が書けたのも、朔太郎氏の序文が腑に落ちていたからという要素が大きい。

「月に吠える」「青猫」など彼の作品群に対しては、

ぬすつと犬めが、くさつた波止場の月に吠えてゐる。

萩原朔太郎「月に吠える」より「悲しい月夜」

といった蒼白い言葉選びから、憂鬱なイメージを持つ方も多いと思われる。


しかし今回取り扱うのは「卵」という詩。
昼の明るさや光が描かれた、静謐な作品である。



いと高き梢にありて、
ちいさなる卵ら光り、
あふげば小鳥の巣は光り、
いまはや罪びとの祈るときなる。

萩原朔太郎『月に吠える』より「卵」


二行目と三行目で「光り、」と繰り返すところが非常に朔太郎氏らしい。
「殺人事件」という詩でも

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。

萩原朔太郎『月に吠える』より「殺人事件」

という繰り返しが使われる。
「竹」も「冬」も「死」も、同じようなリフレインである。

彼はマンドリン奏者を夢見て作曲していた時期もあるので、詩に音楽的要素を持たせるのが得意だったのかもしれない。


卵はどこから来た?

さて、この詩で一番分からないのはである。

一行目と二行目だけ読むと違和感は無いが、三行目で朔太郎氏が木の下にいることが分かる。

そして最終行では、光を仰ぐ自分を “祈る罪びと” に見立てている。
では、初めの卵はどこから来たのだろう?

それは、朔太郎氏の想像だと考察できる。
巣があるのは現実であっても、高い枝にある巣の中身まではまず見えないからだ。

野鳥の卵は孵化、雛が生まれるめでたいイメージがある。

光る巣を見る自分が “祈る罪びと” のように思えるのは、清らかさの象徴が巣の中にあるからだ、と想像したのではないだろうか。

(実はもうひとつ、つまらない考察をした。高い場所で上から卵を見つけて、坂を下りてそれを見上げたという線である)


想像だ、と書かない選択

「きっと○○だろう」「○○だとしたら」と、想像と現実を分けてしまう必要は無いこともある。
おそらく分けてしまうと散文やエッセイの類となりかねない。

「卵」は、よくよく読むと奇妙ではあるが、想像と現実のあわいがぼやけることで詩らしさを感じられる作品だ。

あわいがあるどころか、木や巣や卵もすべて想像の産物かもしれないが。

とにかく私も、いちいち説明くさい詩ができてしまった時は、この詩を思い出すようにしたい。


余談:朔太郎詩と卵

実はこの「卵」が収録された詩集「月に吠える」には、もう一つ卵にまつわる散文風の長詩がある。

ばりの巣」というものである。

巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。

(中略)

死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。

萩原朔太郎「月に吠える」より長詩「雲雀の巣」

「卵」や「地面の底の病気の顔」にも通ずる描写があったりと、朔太郎氏の内面を総集編にして噛み砕いたような長詩である。

雲雀というのは地面、とりわけ草むらに巣を作るので、詩「卵」の巣とは別物と思われる。

しかし懺悔や罪という言葉が使われることは共通している。

このことから、朔太郎氏にとって卵とは、「自分の懺悔や内省のために、罪の対極に置いたモチーフ」であったことが伺える。


もうひとつ余談

その「雲雀の巣」には、

心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。

(中略)

おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。

萩原朔太郎「月に吠える」より「雲雀の巣」

という一節があり、
「雲雀の巣」の後で北原白秋氏による序文を読み返すと、

何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。

(中略)

私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清しさを感ずる。

北原白秋「月に吠える 序文」

「雲雀の巣」で懺悔しているのを、優しく包み込んでいるような序文にも見えてくる。


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《今回の参考・引用》

萩原朔太郎 月に吠える

本記事は、加筆修正をした上で電子書籍に収録しています。


(5月11日、リンク追加↓)

朔太郎氏はじめ「白秋の三羽烏」を総当たりで読み比べるなら、こちら


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朔太郎氏も所属していた、「人魚詩社」の詩人たちの記事。
(山村暮鳥編:2025年4月投稿・1313文字
室生犀星編:2025年10月投稿・1274文字)


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