出版人【長井勝一】の〈1921~1994〉――生誕から『ガロ』三十周年まで――
『週刊アサヒグラフ』(朝日新聞社)1994年10月21日号の巻頭カラーの大特集【ガロ風雲録 漫画王国30年の歴史(構成=須田 剛)】より。長井氏のバイオグラフィは『「ガロ」編集長 私の戦後マンガ出版史』(筑摩書房/1982年)と『ガロ』(青林堂)1991年12月号を参考にしているらしい。『「ガロ」編集長』は昔に古本で買い持っているが未読で、波乱万丈の人生が新鮮だった。
この「人間臭い」失敗だらけの人生を大人の『まんが道(裏街道)』として是非NHKで朝ドラか大河ドラマのモデルに採用してほしい。朝ドラは無理か。手塚治虫の『COM』が『ガロ』のライバル誌として登場してくる群像劇で。

●1921年(大正10年) 4月14日、宮城県塩釜市に生まれる。
●1923年(大正12年) さつまいも売りで「一発大もうけ」を狙った父が事業に失敗し、一家で東京へ。家業転々とするが北千住で太鼓焼き(饅頭)屋を開業し、これが繁盛する。小学校時代の愛読書は、立川文庫、豆本類。マンガでは「冒険ダン吉」を好んだ。
●1937年(昭和12年) 立志伝で知った「山師」にあこがれ、早稲田工手学校冶金部に入学。
●1939年(昭和14年) 卒業後「ひと儲けしよう」と満州鉱山に就職、大陸(※中国)に渡る。金山で地図作成に携わる。
●1941年(昭和16年) 山暮らしが嫌になり退職。先輩の勧めで、満州航空の写真処で地図作製に従事する。当時、地図は軍事機密だったので「関東軍第二要員」として兵役は免れる。
●1945年(昭和20年) 南京へ。仕事柄、敗戦の気配をいち早く察知し、友人と本土(※日本)へ逃げ帰る。塩釜の海産物を扱う闇屋を始める。終戦。玉音放送を聞き、好奇心から東京へ飛んでいく。浅草で露天商の盛況ぶりを見、その翌日(8月17日)から古本の露店を開く。
●1946年(昭和21年) 義兄の古本屋と取次を手伝う。
●1947年(昭和22年) 義兄が結核で死亡。店は姉が引き継ぎ、特価本の卸を始める。戦後最初の出版ブームに乗り、赤本マンガの出版を手がける。編集業は素人なので、新聞の求人欄に「マンガ家求む」の広告を出した。
●1948年(昭和23年) マンガ出版が大当たり。根が山師志願なだけに儲けを「飲む・打つ・買う」につぎ込む。無茶な遊びがたたり、この年暮れ、喀血。早く治そうと、一本二万円(当時)のストマイの注射を二カ月連日打ち続けた。
●1950年(昭和25年) 不摂生の生活にもどり、またも大喀血。京都・薬師山にある自然療法の病院へ入院。
●1954年(昭和29年) 退院。世は赤本から貸本マンガの時代になっていた。
●1956年(昭和31年) 日本漫画社を興し、再びマンガ出版を始める。
●1957年(昭和32年) 新人の白土三平が原稿を持ちこんで来る。出版社への売りこみに苦悩していた白土は「ここでもしダメだったら、もうマンガを描くのはやめよう」と思っていたという。「甲賀武芸帳」など白土作品をたて続けに出版し、ヒットを飛ばす。
●1958年(昭和33年) 突如、日本漫画社を廃業。惚れた女性(現在の夫人)にママをやらせたくて、浅草でバーを開業する。わずか半年で元の特価本取次に撤退。
●1959年(昭和34年) 友人ふたりと三洋社を設立、三たびマンガ出版に乗り出す。原稿料前渡しで、さいとうたかを、小島剛夕など有力作家を次々に獲得。白土三平『忍者武芸帳――影丸伝』を刊行。二百五十六ページ、初版六千部は当時、破格の数字で、貸本業界が騒然となった。水木しげる『鬼太郎夜話』刊行。業績は好調だったが、結核が再発し倒れる。
●1961年(昭和36年) 入院。三洋社は事実上解散。初めて“死”を身近に感じる。
●1962年(昭和37年) 今までの人生が何もかも中途半だったと悔やみ「いいマンガを出版しなければ、死んでも死にきれない」と、手術を受ける。術後、じっとしていられず青林堂を設立。千葉・勝浦の療養所を抜け出しては仕事をしていた。半年後に刊行した出版物第一号は、白土三平の「サスケ」。
●1964年(昭和39年) 『ガロ』創刊。初版八千部。「カムイ伝」第一回は間に合わず、「白土三平傑作選集」と銘打った旧作が創刊号を飾ることになった。
●1965年(昭和40年) 誌上で新人の作品を募り、創刊一周年記念号で入選作を発表。一年間で百二十五編が集まった。以降、『ガロ』を舞台に続々と新しい才能がデビューする。
●1966年(昭和41年) 売れ行き好調。八万部で返本率七パーセント。マンガの領域が、子どもの世界から青年層へと広がり始めた。
●1967年(昭和42年) 『COM』(虫プロ商事)創刊。手塚治虫の「火の鳥」をメーンに据えたこの雑誌は、なにかと『ガロ』のライバル誌扱いされた。小学館から『ガロ』を吸収合併して新しいマンガ誌をつくりたいという打診がある。悩んだ末に、申し入れを断る。翌年、『ビッグコミック』(小学館)創刊。
●1971年(昭和46年) 「カムイ伝」第一部終了。『ガロ』第二期へ。
●1974年(昭和49年) 編集長を南 伸坊に任せる。このころから『ガロ』は従来のマンガの枠組みを超えた、さまざまな表現探求の場になる。
●1978年(昭和53年) 編集長を渡辺和博に任せる。
●1984年(昭和59年) ガロ二十年史『木造モルタルの王国』刊行。
●1990年(平成2年) 部数低迷と、高齢により、青林堂売却を考える。
●1991年(平成3年) 社長を退き、会長に就任。青林堂創立三十周年を迎える。
●1994年(平成6年) 『ガロ』三十周年を迎える。
手塚治虫はガロ20年史『木造モルタルの王国』(青林堂)の出版記念パーティー(※1985年)に参加していて、長井氏と談笑してる写真が掲載されている。
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