⑨『好き、は変わらない』--隣に君がいた、あの日から--
あらすじ
毎日同じ景色のなか、四十八歳でバツイチのイベントプロデューサー・桐島拓真は、人生の転機となる大型プロジェクトを任される。そこで出逢ったのは、子供のような眩しい笑顔を持つ二十八歳の広報担当・広野咲良だった。彼女のひたむきさと夏の香りに、拓真の凍りついていた心が溶け出していく。咲良もまた、過去の手痛い失恋から恋を遠ざけていたが、拓真の優しさと大人の覚悟に触れ、再び誰かを想う光を見出していく。仕事を通じて固い絆で結ばれ、急速に惹かれ合う二人。しかし、仕事のパートナーという立場と、二十歳という年の差の現実がブレーキをかける。胸を締め付けるほど愛おしいのに、どうしても「好き」と言えない、大人の切なすぎる両片想いの行方は――。
第八話【ずっと心に】は、こちらから
第九話【それが一番で】
波が、静かに砂をさらっていく。
咲良は砂浜に腰を下ろしたまま、沖を見つめていた。
青い海の向こう。
一つの影が波に乗っている。
颯爽と。
けれど、力強くもある。
そこには、オフィスで見る拓真とは全く違う姿があった。
(知らなかった……こんな顔があったんだ)
波に乗る姿、咲良にはどこまでも自由に見えた。
仕事中の穏やかな表情とも違う。
時折見せる、少し寂しげな横顔とも違う。
海と向き合うその姿は、まるで少年のように無邪気だった。
その姿を見つめながら、咲良の胸は少しだけ高鳴っていた。
年齢なんて感じさせない。
ただ、格好良いと思った。
それは、上司としてでもない。
プロジェクトリーダーとしてでもない。
一人の、男性として――。
自分がそんなふうに思っていることに気がつき、咲良は慌てて視線を海へ逃がしていた。
やがて波が穏やかになり、少し息を弾ませながら、拓真が砂浜へと上がってくる。
「危なかった……大転けするところだったよ」
「そうなんですか?」
「咲良さんが見てるから、少し力が入ってたのかもだね……」
照れくさそうに笑う拓真。
その笑顔に、咲良も思わず笑った。
「でも、本当に凄かったです」
「ん? 」
「凄く上手に乗れてたって思ってましたよ」
「ありがとう。転倒しなくて良かったよ」
拓真の少し嬉しそうな表情が。
(そんな顔をするんだ――)
咲良は、自分の頬が少し熱くなっていることに気付いていた。
「咲良さん、どうしたの?」
「あっ……いつもとは別人みたいで……」
少しだけ戸惑う咲良。
でも、気付けば言葉が零れていた。
「なんか……すごく、格好良かったですよ」
そう言った瞬間、咲良は慌てて海の方へ視線を逸らした。
拓真は少しだけ目を見開いて、
(あかん。また赤なってるわ……俺)
四十代も後半になって、こんなふうに顔が熱くなることがあるなんて思わなかった拓真も、海へ視線をずらしていた。
離婚してから、誰かの言葉に心を揺らされることなんてなかったのに。
そんな二人の間を、波の音だけが流れていく。
「咲良さん。今から着替えてくるから、少し待ってくれるか」
「あっ……はい」
拓真が更衣室へ向かった後、咲良は一人で海を眺めていた。
海なんて、いつ以来だろう。
子供の頃、家族と来た記憶がぼんやりと浮かぶ。
大人になってからは、友人と来ることはあっても、誰かと二人で海へ来る日が来るなんて思ってもみなかった。
それも――。
桐島さんと。
しばらくして、着替えを終えた拓真が戻ってきた。
「お待たせ」
「いえ、全然ですよ」
「咲良さん、お腹は減ってないか?」
「あっ、そういえば……少しだけ」
「じゃあ、向こうにレストランがあるから行こうか」
「はい。行きたいです」
二人は波打ち際を歩き始めた。
少しだけ距離を保ちながら。
けれど、その距離が今の二人にはちょうど良かった。
潮の香りが、ゆっくりと胸の奥へ入り込んでくる。
時折、寄せてくる波が咲良の足元まで届く。
「あっ……」
慌てて避けようとした瞬間、小さく体勢を崩してしまいそうになった。
とっさに、拓真の手が咲良の腕を掴む。
「大丈夫か?」
「あっ……すみません」
近い……。
思っていたよりも近い距離に、咲良の胸が小さく高鳴った。
海風の匂い。
潮の香り。
そして、少しだけ感じる桐島さんの体温……。
心臓の音が、自分でも分かるくらい早くなっていた。
「ありがとうございます」
「私の方が、大転けしてしまうところでしたね」
咲良の恥ずかしそうにしながらも、クスっと笑う笑顔に、
「海は意外と足を取られるからな」
そう言って手を離した拓真の方が、どこか落ち着かない表情をしていた。
(……俺の方が、ドキドキしてどうするねん)
しばらく無言で歩いていく二人。
でも、不思議と気まずくはなかった。
オフィスでの沈黙とは違う。
埋めなくていい沈黙だった。
「海だと、桐島さんって全然違うんですね」
「違う? 」
「はい。なんか……楽しそうです」
拓真は少し驚いた。
楽しそう……かあ。
そう言われたのは、いつぶりだろう。
離婚してから。
いや、その前からかもしれない……。
「そう見えるなら……嬉しいな」
夕暮れの海は、昼間の青とは違う色をしていた。
空は少しずつ茜色へと染まり始めていた。
レストランのテラス席。
夕陽が二人を優しく照らしていた。
海の向こうへと沈んでいく夕陽。
波の音。
潮風。
どこか、時間だけがゆっくり流れているようだった。
「この前の夜景も綺麗でしたけど、夕陽も凄く綺麗ですね」
「そうだね」
拓真は海の向こうを見つめながら、小さく笑う。
「この夕陽を見るのも、ここへ来る理由の一つなんだ」
咲良は少しだけ驚いた。
好きな景色を、誰かに見せたいと思う。
それはきっと、その人に自分の大切なものを知ってほしいということなのだろう。
「私、一人だったら、こんな場所に来ることなんてなかったと思います」
夕陽に照らされた咲良の横顔は、柔らかな色に染まっていた。
拓真はその笑顔を見るだけで、幸せだと思えた。
ただ、隣にいるだけでいい。
そんなふうに思える人が、人生にもう一度現れるなんて思ってもみなかった。
「海って、不思議ですね」
「不思議?」
「なんか……時間がゆっくり流れてる気がします」
「そうだな」
咲良は少しだけ微笑む。
そして、小さな声で呟いた。
「だから、今日が終わるのが少し寂しいです」
拓真は返事ができなかった。
同じことを思っていたからだ。
もし、このプロジェクトが終わったら。
もし、また別々の仕事に戻ったら。
この時間は、終わってしまうのだろうか。
そんな考えが、ふと胸をよぎる。
「……また、一緒に来れたら良いな」
思わず零れた本音だった。
咲良は少し驚いて。
それから優しく笑った。
「はい……来たいです」
夕焼け空が、赤くなった二人の頬をそっと隠していた。
料理が運ばれてくる。
咲良は魚料理を見て、
「わぁ……美味しそう」
と、少し目を輝かせる。
「咲良さん、魚は好きなの? 」
「はい。実家が海の近くだったので」
「そうだったのか」
知らない君を、またひとつ知る。
それが嬉しいと思った。
そんな何気ない反応に、拓真は自然と笑っていた。
(こういう時間が、ずっと続けばええのにな……)
帰りの車、車内に流れる音楽。
海沿いの道。
夕焼けが少しずつ夜へ変わっていく。
咲良は窓の外を見ながら、
「今日、来て良かったです」
と、小さく呟いた。
その時、咲良のスマートフォンが震える。
画面には。
【梨本】、の文字。
「あっ……梨本さん? 」
「すみません。少しだけ……」
電話に出た咲良の表情が、少しずつ曇っていく。
「えっ……」
「はい……」
「急ぎ、ですか……? 」
その言葉に、拓真は小さく視線を向けた。
電話を終えた咲良は、どこか青ざめていた。
「どうかした? 」
咲良は慌てて笑顔を作る。
「いえ、大丈夫です……」
けれど、その笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。
少し間を置いて、咲良は小さく息を吐く。
「別プロジェクトで欠員が出たみたいで……」
「欠員……? 」
「はい。まだ詳しくは聞いてないんですけど、来週、人員調整の話があるみたいです」
拓真は静かに頷いた。
会社では、よくある話だ。
だからこそ、何も言えなかった。
「そうか……」
それ以上、聞かなかった。
正しくは聞けなかった……。
聞いてしまえば、何かが変わってしまいそうな気がしていた。
帰り道。
車の中では、さっきまでの海の話を意識して続けた。
サーフィンのこと。
おすすめの店のこと。
咲良が休日に歩く街のこと。
楽しかった話を……。
不安を、笑顔で包むように。
やがて車は、咲良の家の近くへ到着した。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
少しだけ沈黙が流れる。
海で過ごした時間が、夢のように遠く感じた。
咲良はドアを開けようとして――
ふと、振り返った……。
「桐島さん」
「ん? 」
「今日の海……ずっと心に残ると思います--」
その言葉に、拓真は何も返せなかった。
ただ、小さく、頷くことしかできなかった。
咲良は微笑み、小さく手を振って車を降りていく。
遠ざかる背中を見送りながら、拓真の胸には、あの電話のことが静かに引っかかっていた。
嫌な予感だった。
理由なんてない。
けれど、人生は時々、何の前触れもなく景色を変える。
月曜日の午後のミーティング。
会議室へ入った拓真は、小さく足を止めた。
そこにあるはずの席が、空いていた。
ミーティング開始前に梨本さんが近づいてきた。
いつもの穏やかな表情ではなかった。
「桐島さん……少し、お話があるんですが……」
胸の奥で、何かが音を立てた気がした。
雨の改札。
海で見せた笑顔。
言いかけた言葉。
全部が、頭の中を駆け巡る。
そして――。
「広野さんの件なんですが……」
その先は--。
聞きたくなかった……。
第九話 完
第十話【さようならは言わない】
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