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⑧『好き、は変わらない』--隣に君がいた、あの日から--

あらすじ

毎日同じ景色のなか、四十八歳でバツイチのイベントプロデューサー・桐島拓真は、人生の転機となる大型プロジェクトを任される。そこで出逢ったのは、子供のような眩しい笑顔を持つ二十八歳の広報担当・広野咲良だった。彼女のひたむきさと夏の香りに、拓真の凍りついていた心が溶け出していく。咲良もまた、過去の手痛い失恋から恋を遠ざけていたが、拓真の優しさと大人の覚悟に触れ、再び誰かを想う光を見出していく。​仕事を通じて固い絆で結ばれ、急速に惹かれ合う二人。しかし、仕事のパートナーという立場と、二十歳という年の差の現実がブレーキをかける。胸を締め付けるほど愛おしいのに、どうしても「好き」と言えない、大人の切なすぎる両片想いの行方は――。

第七話【ずっと】は、こちらから

第八話【ずっと心に】

 午後のオフィスには、いつものように穏やかな空気が流れていた。

 拓真はデスクの端に、昨夜咲良から借りた本を置いている。

 ページの隅についた小さなシミを見るたび、一人で顔を赤らめた自分を思い出し、思わず口元が緩む。

 席に戻って来た伊田が拓真を見て、

 「先輩、またニヤけそうになってましたよ」
 「何か、思い出してたとか? 」

 「そんな、顔してないぞ……」
 「そんな事よりだな、昨日の修正案が大方まとまりそうだぞ」

 「そうなんですね。先輩、いつも仕事早いですね」

 「後は、細部の確認だけだ」
 「伊田も、一度目を通しといてくれ」

 「わかりました。では、資料見せてもらっても良いですか」

 二人は、次のミーティングまでに修正案の作成を進めていた。

 週明け、ミーティングの日。

 いつもと同じく午後から始まった。

 拓真と咲良が顔を合わせるのは一週間ぶりだった。

 お互いに忙しく、合うまでに特に何の連絡等も取り合ってなかった一週間。
 
 でも、いつもの咲良の微笑ましい笑顔に、一週間という何も無かった時間が嘘のように消えてしまう。

 「桐島課長、お疲れ様です」

 「広野さん、お疲れ様」

 この何気ない挨拶。
 ただそれだけで心が軽くなるのを、二人は感じていた。

 しかし、言葉ははっきりと交わされるのに、その間にはいつも、見えない壁が一枚あるようにも……。

 好きだから……不安に。

 好きだからこそ……。
 弱気になる時が……。

 まだ、お互いを深く知らない。

 会えた事への嬉しさとは裏腹に、不安という感情も足されていく。

 そんな想いを隠して、修正案の確認ミーティングが進んでいった。

 「よしっ、この修正案で、ほぼ問題なく進められそうだな」
 「では、ここで一旦、休憩を挟もうか」

 拓真は、張り詰めた空気を循環させる為にメンバーに声をかけた。

 「ですね。ちょっと外の空気でも吸って気分転換してきますよ」

 伊田と梨本さんの二人は、屋上のテラスへと向かって行った。

 拓真は一人、フリースペースへと足を向けていた。

 ゆっくり頭を休めたい時には、ホットコーヒーを飲むのが昔からの習慣だった。
 自動販売機が並んでいる、その前にあるベンチ。
 いつものホットコーヒーを飲んでいると、咲良が歩いて来た。

 「桐島さん、お疲れ様です」

 「咲良さんも、お疲れ様」

 二人きりの雰囲気に、気まずそうになる拓真と咲良。

 お互い仕事の話以外へ踏み込もうとすると、何かが引き止める。
 拓真は先週の食事の続きを口にするきっかけを探しながら、結局はイベントの話しに……。

 咲良も、あの夜景の輝きの余韻をまだ胸に抱えている。
 でも、それを口にすることはできず、愛想笑いのような柔らかい笑顔で頷くだけだった。

  (いつも、こうやな。何か話さなアカンと思えば思うほどに……やわ)

 彼女が見せるその笑顔は、俺に向けられた本物なのだろうか。

 それとも、大人としての優しさなのだろうか……。

 埋められない距離を感じてしまうたびに、胸の奥が締め付けられるように苦しくなる時がある。

 そんな拓真の想いは、咲良を好きになればなる程に増していく。

 「桐島さん……」
 「咲良さん……」
 二人の声が重なる……。

 「……そういえば咲良さんは、休日はどんなふうに過ごしているのかな? 」

  拓真の何気ない問いかけに、咲良は少しだけ目を見開く。
 こんなふうに、プライベートな時間に踏み込む質問は珍しかったからだ。

  「私はだいたい、家でゆっくりしたり、たまに街をぶらぶら歩いたりするくらいです。桐島さんは? 」

 「私は……娘がたまにこちらに来るので、そんなときは公園へ行ったり、食事に出かけたりするよ」

  その言葉を聞いた瞬間、咲良の胸に締め付けるような想いが溢れた……。

 拓真には、自分がまだ何も知らない家族との時間がある。

 離婚という過去があり、二十年という歳の差や、積み重ねきた人生がある。

 今こうして話していても、触れているのは拓真のほんの一部に過ぎない。

  咲良は拓真の事を知りたいと思う反面、聞くのが怖いかも……と。

 拓真の方も同じような思いが。

 咲良とは、二十代という離れすぎた……歳の差。

  知らない楽しかった思い出や、過去に負った心の傷だってあるはず。

  俺には知らない君が確かに存在すると。

  だがそれでも、心は嘘をつけない。
 
 今、目の前に居る女性を、『好き』、だと言う事は……。

  想いは日に日にはっきりと形を成してくるのに、言葉にすることだけはどうしてもできない。

  この想いを『好き』という一言に込めて口にしたら、今ここにある穏やかな時間は壊れてしまうだろう。

 咲良の、あの眩しい笑顔が二度と見られなくなるような気がする……。

 それなら、このまま――
何も変えずに、心の奥底にしまっておく方が良いのだろうか。

 心の中を巡る、同じような想いが二人の気持ちを交差させていた。

  その日のミーティングか終わり、会議室を出ようとした時、

 「先輩、ちょっと良いですか」
伊田と田尻が、引き留めてきた。

 「どうした? 」

 「先輩、今日の雰囲気おかしくなかったですか? 」

 「そうですよ。桐島さんらしくなかったっていうか、よそよそしかったっていうか……」
 田尻も、困惑した表情を浮かべていた。

 「おかしくは、ないだろ? 」
 「修正案も無事に固まった事だし」

 「それとは違いますよ……」

 「そうですよ。それは問題無くでしたけど、雰囲気がね……」

 「何だ? 何が言いたいんだ? 」

 「あっっ」
 「咲良さんが帰りますよ」
 「桐島さん、駅まで送ってあげて下さいよね」
 田尻は慌てて、二人をエレベーターに乗せていった。

 オフィスの明かりが少しずつ消えていくビル群。
 二人が乗ったエレベーターから見える外には、細かな雨が降り始めていた。

 ビルを出る前に拓真は
 「咲良さん、傘って?」

 「あっ……持ってないんですよ……」

  「そうだよね。急な雨だったしな……」
 
 「……ちょっと待ってくれないか」と、
 拓真は小走りで守衛室へと向かった。

 「田中さん、貸し出し傘、一本借りても良いですか」

 田中さんは何も聞かずに、いつもの笑顔で傘を手渡してくれた。

 守衛室で借りた傘を咲良に渡しながら、
 「田中さんに借りたから、次のミーティングの時にでも返しておいてくれると助かるよ」

 「……ありがとうございます」

 咲良は少しだけ俯いて、傘を受け取った。

 拓真は自分の傘を差せば良かっただけの話なのに、なぜかそれが出来なかった。
 
 (なんでやろ……俺……)

 二人は並んで、それぞれの傘を差しながら歩き出す。

 雨音がだけが、二人の間を静かに満たしていく。

 歩きながら雨音に混じるように、拓真に咲良が話し出す。

 「修正案、うまくいきそうで良かったですね」

 「ああ、みんなのおかげだよ」

 「……桐島さんのまとめ方が上手いからですよ」

 「そんな事は……ないよ」

 少し沈黙……。
また雨音だけが二人の間に戻ってくる。

 (何か話さなアカンのに、なんでこんなにぎこちないんやろ……)

 気がつけば、駅の明かりが見えてきた。
 改札口の前で、二人は立ち止まり、

 「そういえば……咲良さんは、海って好きかい?」

 「海ですか? 好きですよ。でも最近は全然行ってないですけどね……」

 「実は俺、昔サーフィンをやってたんだ」

 「えっ、そうなんですか」

 「もう何年もやってなかったんだけど、少し前にリフレッシュしてみようと思って、久しぶりに行ってみたんだ」

 「どうでしたか? 」

 「……やっぱり、海は良かったよ」

 少し間が空いて。

 「今度……また行こうと思ってるんだけど」
 「良かったら、次の休日の予定がなければ一緒に行かないか? 」

 咲良は少しだけ驚いた顔をして、それから。

 「……行きます」

 小さくても、でもはっきりと答えた。

 その一言を聞いた瞬間、拓真は思わず口元が緩みそうになるのを、必死に堪えていた。

 「ありがとう」
 「じゃあ、また連絡するよ」

 「はい。……ありがとうございます」

 二人は改札を通り、いつものようにそれぞれのホームへと向かって行った。

 階段へ向かう咲良……。

 数歩進んだとき、振り返りながら

「楽しみにしてますね」と。

 今の二人には、その言葉だけでも十分だった。

 そう言って手を振る咲良に、拓真も小さく手を振る。

 さっきまで胸を締め付けていた不安は少しだけ薄れていた。

 好きだから不安になる。

 それでも――。
ほんの少しだけ、前へ進みたかった。
 
 外の雨はまだ、静かに降り続けている。

 第八話 完

第九話【ずっと心に】は、こちらから

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