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⑩『好き、は変わらない』--隣に君がいた、あの日から--

あらすじ

毎日同じ景色のなか、四十八歳でバツイチのイベントプロデューサー・桐島拓真は、人生の転機となる大型プロジェクトを任される。そこで出逢ったのは、子供のような眩しい笑顔を持つ二十八歳の広報担当・広野咲良だった。彼女のひたむきさと夏の香りに、拓真の凍りついていた心が溶け出していく。咲良もまた、過去の手痛い失恋から恋を遠ざけていたが、拓真の優しさと大人の覚悟に触れ、再び誰かを想う光を見出していく。​仕事を通じて固い絆で結ばれ、急速に惹かれ合う二人。しかし、仕事のパートナーという立場と、二十歳という年の差の現実がブレーキをかける。胸を締め付けるほど愛おしいのに、どうしても「好き」と言えない、大人の切なすぎる両片想いの行方は――。

第九話【それが一番で】は、こちらから

第十話【さよならは言わない】

 「広野さんの件なんですが……」

梨本の言葉に、拓真は小さく息を止めた。
 会議室の空気が、少しだけ重くなった気がした。嫌な予感は、どうして当たるのだろう。

 梨本は言葉を選ぶように、一度だけ視線を落としながらも……

 「別プロジェクトへの異動が正式に決まったそうです」

 (やっぱり、そうか―-)

 心のどこかで覚悟していたはずなのに、その一言は思っていたよりも深く胸へと沈んでいった……。

 「次の大型案件の広報担当として、抜擢されたみたいです。イベント開始を待たずに、引き継ぎを進めることになるそうで……」

 イベント開始を待たずに……。

梨本のその言葉だけが、やけにはっきりと耳に残った。
 会社としては当然の判断なのだろう。

 咲良さんは優秀な人だ。

 新しい案件へ人材を回す。

 会社員としての次のステップとしては、むしろ喜ぶべき話なのかもしれない。

 だからこそ……何も言えなかった。

 「田尻さんが、広野さんの分のイベントの広報を引き継ぐらしいです」

 「そうか……」
 「報告、ありがとう」

口から出たのは、それだけだった。

 もっと何か言うべきだったのかもしれない。
 けれど、言葉はどこにも見当たらなかった。

 昨日……。
一緒に海へ行った事……。

 夕陽に照らされた、あの横顔。

 「今日が終わるのが少し寂しいです」
そう呟いた……咲良の声。

 帰りの車で鳴った電話。

 少しだけ曇った表情。

あの時には、もう決まっていたのだろうか。
 胸の奥が静かに痛んだ。

 「桐島さん……」
梨本が何か言いかける。

 けれど拓真は、小さく首を振った。

 「仕事だからな」

 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
 仕事だから。

 会社だから。

 仕方がない。
そんなことは、誰よりも分かっている。

 分かっているのに――。

どうして、こんなにも苦しいのだろう。

 言葉にならない想いが、全身を駆け巡っていく。

 しばらくすると、会議室の扉が静かに開いた。

 「遅くなってすみません……」

拓真は思わず顔を上げた。

 そこには、柔らかな笑顔を浮かべた咲良が立っている。

 ただ……その笑顔は、ほんの少しだけ寂しそうにも見えた。

 重なった咲良の瞳が、一瞬だけ……
揺れた気がした。

 けれど次の瞬間には、いつもの笑顔へと戻っていく。

 「桐島課長、お疲れ様です」

 「……広野さん、お疲れ様」

 何も変わらない……。
変わらないはずの言葉が、今日は少しだけ遠く感じた。

 その場は挨拶だけで終わり、ミーティングはいつものように進んでいった。

 スケジュールの確認。

 役割分担。イベント当日の動線。

仕事は変わらない……。

 増えたのは、広報活動の田尻への引き継ぎ事項だけだった。

 変わるとしたら、ただ一つ……。

この時間に、終わりが見えてしまっただけだった。

 イベント開始まで、あと十日。

 そして……咲良と仕事ができる時間は、あと十日も無かった。

 それからの日々は、驚くほど普段通りに流れていった。

 田尻への引き継ぎ。

 最終確認。会場と出演者との打ち合わせ。

 慌ただしい毎日の中で、時間だけが容赦なく過ぎていく。

 イベント会場の準備も、予定通り進んでいた。

 その中で、咲良はいつもと変わらなかった。

 イベント会場では、

 「桐島課長、お疲れ様です」
と、柔らかな笑顔を向けてくる。

 ミーティングでは真剣な表情で資料をまとめ、田尻へ丁寧に最終の引き継ぎを行っていた。

 その姿は、初めて会った頃と何も変わらない……。

 変わってしまったのは、
きっと自分の方だった。

 (あと何回、この挨拶を聞けるんやろうな……)

 そんな事を考えてしまう自分に、拓真は小さく苦笑した。

 準備も大詰めに入る。

 拓真は、何かを切り替えるかのように、両手で頬を叩いていた。

 昼休み。
そこは、いつもとは違うフリースペース。

 でも、そこの自動販売機で買ったのも、ホットコーヒー。

 咲良もフリースペースへと向いて来た。

 「桐島さん、お疲れ様です」

 「咲良さんも、お疲れ様……」

 そう言って咲良は、普段は購入することのないホットコーヒーを買っていた。

 「隣……」
 「座って良いですか……」

 「ああ、良いよ」
 「……」

 左隣からは、あの日の海を思い出すような潮の香りがしていた。

 ほんの少しだけ交わす会話が、
以前とは何も変わらないはずなのに、その何気ない時間が愛おしく思えた。

 そして、咲良とは最後の業務の前日。

 仕事を終えた拓真は、いつもとは違う帰り道を歩いていた。

 駅前の商店街。
夕暮れに染まる街並みの中、一軒の花屋の前で足が止まった。

 自分には縁のない店だと思っていたけど、今日は自然と足が向いていた。

 店内へ入ると、優しい花の香りが鼻をくすぐる。

 赤。
 白。
 黄色。

 色とりどりの花が並ぶ中、自然と視線は薔薇へ向かっていた。

 店員が微笑みながら声をかけてきてくれた。

 「プレゼントですか? 」

 拓真は少しだけ考え、それから頷きながら、
 「感謝を伝えたい相手に……」
 「かな……」

 口にしてから、自分でも少し驚いた。 
 『感謝』
本当に伝えたい言葉は、きっと別にあるはずなのに。

 けれど、今の自分に許された言葉は、それだけのような気がしていた。

 店員は優しく微笑みながら、

 「でしたら、ピンクの薔薇はいかがでしょう」

 「ピンクの薔薇……? 」

 「はい」

 「花言葉は『感謝』なんですよ」

 感謝――。
その言葉は、静かに胸へ落ちた。

 本当は、それだけじゃ足りない。

 それでも……。
今の自分が伝えられるのは、その想いだけだった。

 淡いピンク色の花びらを見つめていると、優しくて、柔らかくて。

 どこか、あの笑顔に似ている気がした。

 「では」
 「……それをお願いします」

 店員が本数を尋ねると、

拓真は少しだけ考えてから、小さく答えた。

 「五本でお願いします」

 紙に包まれた、想いを込めた薔薇を受け取りながら、拓真は静かに息を吐いた。

 明日になれば……。
いつもの景色は、少しだけ変わってしまうと。

 そして翌日、最終ミーティングの日がきた。

 イベント前日の、最終確認。

 全ての準備を整えて、明日の為の入念なチェックを行っていく。

 咲良から田尻への引き継ぎ完了と共にミーティングは終了した。

 メンバーのみんなは咲良との別れの時間を大切にしながらも、咲良のこれからの活躍を応援していた。

 仕事終わりのオフィスフロアは、いつもより静かだった。

 プロジェクトメンバーが帰宅した後、窓の外には夜の灯りが広がっている。

 帰る準備をしていた咲良へ、拓真は歩み寄った。

 「咲良さん……」

 「はいっ 」

 少しだけ緊張しながらも、紙袋を差し出した。

 咲良は驚いたような表情をして、

 「えっ……私に ですか? 」

 拓真の両手には、淡いピンク色の花びらが重なっている。

 「今まで……ありがとう」

 それだけだった。

 本当は、伝えたい事が沢山あったけど。

 海のこと。
 雨の改札のこと。笑顔のこと。

 好き、だという気持ちのことも。

 けれど、言葉にしてしまうと今ある穏やかな時間までも壊れてしまう気がした。

 だから……。
今は、それだけで良かった。

 「咲良さんには、本当に助けてもらったよ」

 花束を抱きしめるように受け取った咲良の目には、少しだけ涙が浮かんでいた。

 「こちらこそ……ありがとうございました」

 二人は、照れ合いながら笑った。

 いつものように……。
でも、少しだけ涙を浮かべながら。

 エレベーターの前。

扉が開くと咲良は一歩、下を向きながら中へ入った。

 そして振り返り、拓真と視線を重ねると、

 「桐島さん……」

 「ん? 」

 「海……本当に楽しかったですね」

 「……俺もだよ」

 拓真は、小さく頷くように笑った。

 それだけだった。

 扉が静かに閉まり、エレベーターの表示が、一つずつ下へと降りていく。

 7。
 6。
 5。
 ただ、それを見つめていることしかできなかった。

 さようなら……。
その一言だけは、最後まで口には出さなかった。

 いや……。

言わなかった。

 また、どこかで会える。

そんな気がしていたから。

 第十話 完

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