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手紙ドラキュラ

「変身」でおなじみのフランツ・カフカは、手紙魔だったことでも有名だ。

とりわけ、恋人に手紙のやりとりを求めすぎて「手紙ドラキュラ」と呼ばれていたのをどこかで読んだときは、めちゃくちゃいいなと思った。

カフカの手紙の中に、恋人からの手紙にならぶ手書きの文字の香りを嗅いで、その首筋を思う文面があったからだろうか。
ありあまる感受性で、手紙の文面からあらゆる要素を嗅ぎ取り、満たされないこころの養分にしていたからだろうか。

どちらにしても、良い呼び名だ。

そしてまた、私も手紙ドラキュラだ。

私はカフカとおなじく話すのが苦手だし、じぶんの中にあるほんとうの思いは書かないとあらわすことができないと思っている。

それに、聞くことも苦手で、放たれた言葉のほんとうの意味について、三日後ぐらいにピンときたりする。
だから、相手の思いも、書かれてあってほしい。
そうすれば、思う存分ためつすがめつして、相手の文字から養分を吸収でき、理解がはかどる。


これは持論だけれど、
手紙とは、口に出さない思念を送り合うときだけの言語、だと思う。

この言語の肝は、送り合うのがただの思念ではなく、"口に出さない思念" というところだ。
それは、会話とは違って、いちど文字に落とし込まれなければならない。

たとえば、相手の脳内へ直接語りかけるシステムが可能ならば、形式上は口に出さずに思念を送れるに違いないけれど、「語りかける」と表現するのがしっくりくるように、それは "口に出す思念" に近い。電話のように。

文字になるのならば、それは手紙に限らない。
メールでもLINEでも、壁の落書きでもいい。
いちど文字というかたちに落とし込むことで、思念は具現化される。
その過程で起こる、翻訳にもよく似た繊細ないとなみが、この言語の滋養の部分だ。

ひとが、胸のうちの思いを目にみえるようにして相手に渡すとき、どんな文字をどんなふうに並べてあらわすか。
そこに、途方もないセクシーさがあり、尊さがある。

それは、世界に似ている。
そこに住んで、生きてしまえる包容がある。

手紙ドラキュラたる私やカフカが好きなのは、この "言語の滋養の部分" であり、相手の言語の世界に包容されることであって、きっと手紙そのものではない。
あの頃はこの言語を叶えるのに、手紙が適していただけだ。

実際カフカも、手紙が返ってこない期間をやきもき過ごさざるを得なかったし、手紙を書きすぎて切手代にも困窮していた。
多分、メールやLINEがあったら、ハマっていたかもしれない。
手紙を待つ、という期間がないぶん、小説を書くことにも集中できなかっただろうし、既読無視なんかしたら鬼のようにメッセージを送ってきたかもしれない。
LINEドラキュラは、ちょっと良くない。
なくてよかったね、LINE。


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