炊かさる論 ―米になろうとする万有意志―
炊かさる――
あなたは、この言葉を知っているだろうか。
北海道弁で、米などが「炊けること」をあらわす。
いや、実は、これではニュアンスは伝えきれていない。
「炊かさる」の正確な意味は、
「米が、勝手に炊きあがる」こと。
……なに言ってんの? って、思った?
私も、そう思う。
米を研ぎ、炊飯器にセットし、炊飯ボタンを押す。
その工程を、意志を持っておこなったのは自分だ。
自分が、米を、炊こうとしている。
なのに、なぜか北海道において、このあと米はすべからく、
「炊かさる」運命にある。
使用例を見てみよう。
例1)
A:「お母さん、お腹すいた!」
B:「ちょっと待っててね、もうすぐ米炊かさるから…」
例2)
A:「今日は外食にしない?」
B:「いいね! でも、米炊かさっちゃうから、やっぱり行けないよ」
このように、肯定的な意味(例1)においても、否定的な意味(例2)においても、米は「炊かさる」と言う。
なぜ、北海道民は、自ら米を炊いておきながら「勝手に炊きあがる」と言うのだろうか。
これには、北海道民の、おおらかな県民性が起因している。(道民性?)
炊飯のボタンを押したあと、炊飯の工程は、炊飯器の領分になる。
内部で、なにか熱が出て、おいしくなるいろんな工程を経て、最終的には炊かれた米となる。
そのことを、はたして私たちは、ただしく理解しているだろうか?
否、今みたいに、なんとなく炊飯器が上手くやっていい感じに炊きあがるのだろう、ぐらいの認識しか、たいていの人間は持っていないと思う。
「炊かさる」に限らず、意に反して起こることがらに対して、北海道民は「〜さる」という方言を使う。
ぶつかってボタンが「押ささる」、ペンが「書かさらない」のように。
そこには、「私の意図とかけはなれたところで、この出来事は起こった」という、ある意味、責任転嫁のようなニュアンスがにじむ。
炊飯ボタンを押したのは自分なのだから、米が炊けるのは、意に反したことではない。
しかし、「なんだかよくわからない理屈により米が炊けようとしている」というフェーズに入ったとき、米はもう人間の預かり知らない領域にあり、ある意味では意に反しているとも言える。
炊飯ボタンを押したからにはもう人間にすることはないし、責任も取れない。
あとは、炊飯器がただ働いてくれることを祈るのみだ。
それが、「炊かさる」なのだ。
そう思うと、あとは任せたよ、という炊飯器への信頼のようなものも感じるし、なにより米はもう、米になろうとする万有意志*により、米になるしかない――そんな運命的なものさえ、感じられはしないだろうか。
ああ……やっぱり、「炊かさる」が好きだ。
*カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』(ハヤカワ文庫 2009 p.384 など)より「そうなろうとする万有意志」をもとに
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