百にひとつも言葉にできない
感情には100種類あると聞いた。
とあるメンタルトレーニングの先生が言っていたのだ。
たぶん、その気になれば感情のそれぞれに細かく名前をつけられる、という意味なのだろう。
でも、いざ挙げてみよと人に指示するとたいていは数個、場合によってはひとつも出てこないこともあるという。
私なら、きっといくつかは出せる。
うれしい、たのしい、かなしい、とか。
でもどこかで、わからなくなる。
これは、知識として知っているものを挙げているのか、それともほんとうのこころの奥から実感としてわかっているものを差し出しているのか。
私にはわからない。
私のうれしいは、みんなのうれしいとほんとうに同じ意味なのか?
私のたのしいは、みんなとはたして同じ強度なのか?
私のかなしいは、みんなのようにほんとうにかなしむに値するのか?
私は感情に名前をつけられない。
こころの動きの瞬間を切り取って言語化したりせず、意味を確定させないようにして、"その感じ" として時間ごと保持する。
それは、ふんわりとたんぽぽの綿毛を握って捕らえるような、英単語を日本語に翻訳せず覚えるような、なんとも例え下手だけれどそうした作法みたいなものだ。
じゃあ、なぜそんな作法を?
それは、感情とはひとつのスペクトラムでしかないと思うからだ。
あえて数えるなら100どころか無限にあるし、おなじものはひとつもない。
だから、固定することに猛烈に違和感を感じる。
あわせて時間も意味を持つから、なおさら固定などできない。
それにきっと私の感情というものは、強度においてみんなの想像を超えるし、特異さにおいて一般から外れてしまうことも、経験から知っている。
なぜそう思うかを語れないのは、その経験が思い返したくなく、かんたんに理解されうるとも思わないから。
だからそうこうしていると私はまた、思いを言葉にすることから遠ざかり、あらわせないことが胸のうちに溜まり、世界との距離がじわじわ離れていき、生きづらさを抱える。
やっかいだけれどそれが、この脳のありようのすべて。
感情のことなのでつい抽象的な表現ばかりになってしまうけれど、固定化したくないという話をするためにはこの方法しかなかった。
きっとこれは、私のOSの基本設定なのだろう。
感情を言語化したくない私の脳が、未然にそして無意識的に、それを阻止する。
人間には自由意志などないという説を支持したくなる今日このごろだけれど、それはまたべつの話。
書くことが私を助ける。
そう信じることが、私に勇気を与える。
これからも書いていたい。
そう願うことが、私を生かす。
これからも書いていたい。
ずっと、書いていたい。
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