裸の痛々しさに純度の極みをみる
私は、話すことが苦手。
それはWAIS-Ⅳの結果にも裏打ちされている事実。
じゃあ、書くことはと言うと、それはふつう。
話すよりはマシ、という程度。
だからいつも、苦しんでいる。
他人の三倍速で受け取ったり読んだり感じたりすることがらを、爆発して分岐の止まらない思考を、この私のなかに生まれてうごめく言語以前の感覚を、どうやって外の世界に、できるだけそのままに、純度高く排出するか?
瞬間の応答である会話で、私にそれができるとは思えないので、そこははなからあきらめる。
けれどせめて書くことで、どうにかそれを叶えたい。
でないと私はなにも排出できないことになり、機構としてそれは破綻するから、きっとあらゆる意味で死んでしまう。
だから、苦しみながらでも、なんとかかたちを与えようとする試みが、生命と並走して続いている。
私が理系の文章に心地よさを感じるのは、その意味で純度が高いからだと思っている。
無駄を省いた的確さが現象を端的にあらわしているのをみると、じぶんの仕業ではないのになにか楽になる気持ちがする。
極論、数式がいちばん美しい、などといつか言い出すかもしれない。
純文学の曖昧さを同類にみていた時期もあったけれど、いまは含みのない純度に惹かれている。
スリーコード、あるいはパワーコード。
2分で終わるパンクロック。
メッセージはひとつだけ。
そんな嗜好が私にあるのも、おなじ源泉からきているように思う。
どれだけ短く、純度高く、世界にものが言えるか。
たとえるなら。
裸でも服を着ても撃たれれば死ぬとして、より痛々しいのは裸のほうだろう、という思いが拭えない。
そんな非論理的な感じかたをじぶんの生理として認めたい。
直感に理由なんかいらない。
裸の痛々しさに純度の極みをみる、私はそこに惹かれる、そういう話だ。
結びに、森博嗣氏の著書から一節引いておきたい。
気持ちを言葉にするときには、少なからずフィルタがかかる。上手く言葉にできない、という経験は誰にもあるだろう。これは当然のことで、言葉にすることで失われる情報が必ずある。失われる方が多いかもしれない。しかしそれでも、言葉にしなければ外部へ出ていかないので、多少の犠牲はやむをえない。言葉にするためには、自分なりの整理が必要だし、細かい部分で0か1かの決断をしなければならない。もやっと存在するものを、AかBか、どちらに近いかを決めなければ、言葉にならないからだ。
こぼれて失われるほうに対してドライでいられるのが私と違うところではあるけれど、この人をもってしても失われるしかないのだとわかっただけで救われる。
あとはどうしたらそんなにドライでいられるかを教えてほしいけれど、そこは生来の気質か、ただのセンチメンタルか……それはまたべつの話だ。
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