見出し画像

文体と文体が結ばれるなんて、ずるい

書くことを生きていると、文体というものに、やけに敏感になってしまう。

じぶんの文体というものは、つまりはじぶんだ。
それは自然のなせるもので、ことばを連ねていくことの積み重ねでしかなく、けっして作ったり偽ったりできるものではない。
作ったり偽ったりすることはその場では可能だけれど、過ぎる年月の中で、あらゆる場面で、一貫して徹底した同質の嘘をつきつづけることは商業作家でも難しい。
たぶん、嘘をつきつづける中でにじみ出るもの、それを文体と呼ばれてしまいそうな気がする。

私の文体は、赤裸々だ。
嘘はつけない性格だし、背伸びをしたり虚勢を張ったりもしない。
わからないことはわからないまま、わからない私です、と手を挙げて書くことしかできない。
怠けているのでも正直者を装っているのでもなく、ただ自然な呼吸で書けないのなら、苦しくて書くなんてできないのだ。
吉田兼好のように、徒然なるままに硯に向かうことだけが、私の精神を解放してくれる。
そうすることで、ほんとうのじぶんでいられる。
そのために書くのだから、嘘や武装は必要がない。

そんなやわやわの殻でできた私の文体だから、だれかほかの強烈な文体に出会うと、ものすごく影響を受ける。
じぶんらしさを失うことは避けたいので、大切に守らなければいけないほど価値のある文体とも思わないけれど、本能的には守ろうとする。

たとえば川上未映子さんや古賀及子さんなどは、あまりに好きで、強烈で、影響を受けすぎるので、私は長らく読むことを避けている。
好きすぎて読めないなんて本末転倒でかなしいけれど、少なくともじぶんが書いているあいだは読めそうにない。
たまにこらえきれずに一文読んで、深くため息をついて忘れることにするような、そんな日々だ。

けれどどこかで、少し変容されたいという気持ちもある。
というよりほんとうはすでに、こころ惹かれたときには、変容されてしまっている。
出会ってしまった衝撃で、じぶんの殻は相手の文体のかたちにへこむ。
内側から必死に殻を押し戻して元のじぶんを保とうとするけれど、完全に戻すことはできない。
やはり最終的にそこから紡ぎだす音色は、以前とはすこし違うものになる。
その変容は、自己の喪失というより、文体と文体の結びのような、なんだか運命的で宿命的な響きを含む『自己の更新』にほかならない。
そうやってできていくのが私たちの文体というもののほんとうの姿で、それは生きて出会う過程の美しい全記録で、だからこそ、いちどへこんだ部分も含めたそのかたちを、守りたいと思うのかもしれない。

それにしても、あこがれの文体と結ばれるなんて、じぶんでじぶんの文体がうらやましい。


あわせて読みたい:


いいなと思ったら応援しよう!