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私から見える景色

ひとのこころと、ひとがどんなふうに景色を見るかは、きっとおなじくらい語り得ないものだと思う。
一人称視点の映像が好きだけれど、それというのも、語り得ぬだれかのこころのなかを垣間見ているような心持ちになるからかもしれない。

フラクタルに惹かれるにんげんといういきものは、なんだか可愛らしい。
雲や、貝殻、葉っぱの模様、雪の結晶。
計り知れなさのなかに、美しさを見て立ち止まる。
この私は、大きな世界のなかの小さな存在なのだと思い知らされる。

波打ち際を歩いたら、胸がすくような気持ちになって。
山の稜線を見上げたら、足が止まって。
そのときひとは、私は、あなたは、どんな表情をしているだろう。

いまじぶんに見えているものを誰かに説明することは、私にとって難しい。
解像度はどうしますか? と聞きたくなる。
たとえば私から見える景色には、いつも時間が含まれている。
いわば、可視化された過去の記憶の連なりが、いまの景色の下地を作っている。
景色と情動は絡み合い、分つことなどできない。

いまは誰もいないあのホールを見て、あの日起きたことが空気から立ち上ってくる。
昨日のことのように、という表現があるけれど、私にはいままさに目の前で起きていることのように、視界の明るさ、空気の匂い、周りの雑音などをともなって、ありありと質感をもって思い出される。
そのときのじぶんの一人称視点が、何度でも高精細に呼び出される。

私がこう言って、相手はこんな表情と仕草と声で応え、こころのなかはこんな温度になった。
――くりかえし。

これは、天からのギフトかもしれない。
いつまでも宝物を胸にあたたかいまま抱えておくことができるのだから。
でも、もしこれが、もう二度と会うことの叶わないひとだとしたら――
私の脳って、あまりに残酷なんじゃないかと、ちょっと神様か前頭葉あたりに問い詰めたくもなる。

ただ時間が流れるというだけで、たいせつなことは、毎秒遠くなっていく。
忘れない脳は、そんな自明のことを冷静に、あたりまえに、受け入れてはくれない。

相手も私のように、時の流れに逆らって胸のなかに保ちつづけない限りは、相対的な事実としてそれは遠くなっていく。損なわれつづけ、いつかは失われてしまう。
それを失わないよう相手に求めることは不可能に近いし、求めてよいことがらでもない。
そんなことはよくわかっているのに、どうしてもうまく落とし込むことができない。
だから、解像度はどうしますか? とはじめに聞くのだ。みんな、困ってしまうから。


雲をよく眺めて、細部と全体にこころを馳せる。
風に吹かれて動いていっても、そのフラクタルは損なわれない。

だから私も、そうなれたらいい。
フラクタルのひとつに。
自然のなかの、あの模様に。
雲のように、いつも頭上に。
波のように、いつも足元に。
全体が変わっても細部は私のまま、模様みたいにくりかえし、絶えずそこに在ることができたら。
そうすれば、ひとはときどき足を止めて、はるかな稜線を見るみたいな顔で、こちらを眺めてくれるかもしれない。
ならば私のたいせつな記憶の質感はきっとつなぎとめられて、私の代わりに景色を、そこに立ち上らせてくれるはずだ。
それはもう、なにかひとつだいじなことが叶えられたような、そう言っても言い過ぎではないような気さえしてくる。

だから、そのために私にできる唯一のことは、今日もこうして綴ること。
せめて少しでもつなぎとめられたらと祈りながら、私から見える景色を、できるだけ遠くまで。



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