夜の色あい
物心ついたときからいわゆる「夜型人間」で、夜ふかしばかりしている。
おもに生活のために夜勤をした月日も長い。
夜ふかしは悪いものだという風潮が世間にはある。
午前の陽光が身体には良いとか、脳の活動がどうとか、なにか根拠のありそうなことたちが常識をつくっている。
好きとか、じぶんには合っているとか、そもそも生活のためとか、いまいち核心を突かない理由を盾にして、ずっと夜を生きてきた。
よく「夜の静寂が落ちつくんだ」みたいなことを言う人がいる。
そのおかげで集中できるとか、思索が捗るとか。
もう面倒くさいから私も長らくそれを借りて、そういうことにしていた。
けれど、ほんとうは違う。
たしかに夜の静寂は好きだけれど、それは夜が静かだからでも、思索が捗るからでもない。
時間を、区切られなくて済むからだ。
私の身体の秒針は、カチカチと音を立てては刻まない。
カチカチではなくすーっと動くほうのあの秒針、あれが私だ。
時間とは一秒ごとの積み重ねではなく、だからこそ過去と現在と未来とに分かつことができない。
少なくとも私にとって時間とは、前といまと先、すべてを連ねた溶け合いで、隔てなく行き来できるし、私はそのどこにも滞在することができる。
滞在している時間の色あいは濃く、離れた時間は薄くなる。
ちょうど、水彩に水を落とす広がりのように、色あいは濃淡をつくり、時間は伸縮する。
そのなかに生きている私は、秒針の刻みも、曜日も日付も、太陽や月の位置も、気に留めることがない。
ときどき世間との辻褄合わせをするために、カレンダーがあり、約束がある。
長々と不明瞭なことを綴ったけれど、つまり私は、夜の色あいが何より好きなのだ。
夜の静寂が好きなのは、それが静かだからではなく、外から聞こえてくる区切りのノイズがなくなるからで、そこでは時間の色あいが濃さを増すからだ。
時間がいちばん膨らんで揺蕩う豊かな色あいのとき、黒と濃紺のあわい、じぶんだけの空間に漂って、身をまかせる。
それだけで何かしらが生まれてくるし、自然と深くなるいろいろを思いがけず観ることができる。
そんなときの気づきや確信はたいてい正しくて、きっとそこが宇宙に近いからなんじゃないかと思ったりもする。
これは最近じぶんで作った言葉だけれど、『霊験的インスピレーション』、つまりは神託みたいに降りてくる直観のようなもの、まさにこれに恵まれるのがそんな時間なんじゃないかと、だからこそ私は夜が好きなのだと、朝の手前で、私はそんなふうに考えている。
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