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音楽を聴くこと、じぶんを生きること

とある演奏会で、素晴らしい生演奏を聴いていた。
ぼんやりと、けれどはっきりと、そしてごく自然に、こころのうちに浮かんでくるものがあった。

音楽を聴くって、他者の時間を生きることなんだろうな。
そんなふうに思った。
歌とは、だれかの人生を生きること、というような言葉を最近読んだからかもしれない。
意識はしていなかったけれど、不思議なほど同じように、自然とそんな思いが生まれていた。

じぶんの時間の流れを、その曲のあいだだけは、作曲家のテンポ、演奏家のテンポに任せる。
そうして時を過ぎ行かせることを心地よく思う。それが音楽を聴くという行為の、本質なのではないか、と。

音楽と時間とは、切り離せない。
音楽が過ぎていってしまうのをつかまえたいと願ったのは今日が初めてではないけれど、だからといって時を止めたら音楽も止まってしまう。
ふたつは同じものではないけれど、それは透明に重なって、分かつといのちを失ってしまう。
そもそも時は止められない。
ということは、音楽はつかまえられない、という結論になるのか。
だとしたら少し寂しいけれど、だからこそ私はいつまでも音楽に憧れているのかもしれない。
綺麗な蝶々もメイソンジャーに入れたら翌朝には息絶えてしまうのだと、リヴァース・クオモも歌っていたし。

会場を出て夕方の空を見上げていたら、雲が流れていて、すっかり風も冷たくなって。
時計を見れば二時間、他者の時間を漂っていたのだと気づいたとき、ふと胸にせまるものがあって、横断歩道を渡りながら考えはじめた。

じゃあ、人生は?
人生も時間と分かつことができないから、たとえじぶんの人生でも、つかまえられない?

いま、私は私の人生を、じぶんでつかまえていない?
じゃあ、だれに任せて、テンポはどこに合っている?
もしかしてこれは、他者の人生?

思いをめぐらせてみると、私は私の人生を、他者に任せたりはしていない。
けれど、しっかりと意識していないと、テンポは時間軸に合ってしまう。
たぶん、そうなるようにできている。
人生というのは時間軸に任せるとちょうど終わるように設計されていて、なにも抵抗しなければ予定通りに演奏が終了する。
私はそうしたくなくて、すこしでもつかまえていたいと思うから、もしかするとじぶんの人生をそのままメイソンジャーに閉じ込めているのかもしれない。
だから苦しいのかもしれないけれど、だから留まっていられるとも言える。

じつのところ、俗に言う時間軸の速度とじぶんの生きる速度とが、一致したためしはこれまで一度もない。
客観的にみれば少しおかしなこの感覚は、そんなところから生じているのかもしれない。
…瓶のふたを開ける?
それはまた、べつの話になりそうだ。


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