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予期せぬまま,真夏の陽光の下で[睡蓮](直島,地中美術館)を観る

 noteを始めたのが今年の3月。瀬戸内海の島々にまるで通うかのように訪れるようになり、美しい情景を写真に収め、それを遺しておく場所が欲しくなったからだ。そして直島の「地中美術館」について、多く書いてきた。

地中美術館 エントランス(4月撮影)

■なぜ地中美術館の「睡蓮」にこれほど魅せられたか

 自然光で絵を鑑賞できる美術館は少ない(もちろん諸般の事情は想像できるし、貴重な絵画を一般公開してもらえるだけでも感謝している)。そんななか、地中美術館はクロード・モネの『睡蓮』を鑑賞する「ために建てられ」、天井から差し込む陽の光で作品が鑑賞できる。

地中美術館は「自然と人間を考える場所」として、2004年に設立されました。瀬戸内の美しい景観を損なわないよう建物の大半が地下に埋設され、館内には、クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品が安藤忠雄設計の建物に恒久設置されています。地下でありながら自然光が降り注ぎ、一日を通して、また四季を通して作品や空間の表情が刻々と変わります。アーティストと建築家とが互いに構想をぶつけ合いながらつくり上げたこの美術館は、建物全体が巨大なサイトスペシフィック・ワークといえるでしょう。

ベネッセアートサイト直島 地中美術館 より

 安藤忠雄設計によるこの美術館の歴史は、ベネッセの直島プロジェクトの「仕掛け人」である秋元雄史氏の著作『直島誕生』に詳しい。展示室は、モネ本人の意思が反映されたフランスのオランジェリー美術館を踏襲しているともいう。

 モネは膨大な数の「睡蓮」を描いているが、美術館によっては薄暗い展示室に暖色系の照明があてられる形で展示され、実際の色見と違った見え方で鑑賞せざるを得ない場合すらある。一瞬の陽光のうつろいを捉えるために人生をささげた印象派の代表的な画家の作品を、自然な陽光の下で鑑賞できるのは、それだけでとてつもなく贅沢だ。

 訪れるたびに、作品の表情が全く違って見える。描かれた水面に意識が吸い込まれ、彷徨うような気分に誘われてしまう。だから絵の前で動けなくなり、その感じにすっかり嵌ってしまった。年間パスポートを入手して、とことん向きあってみようと思った。

■強い陽光の下で「睡蓮」はどう見えるのか

 通うごとに、自分の中ではわがままな要求が膨らんでいった。とりわけ、コロナ禍ほかの事情でなかなか足を運ぶことができない、フランスのオランジェリー美術館についての記述を読み、強い日差しの下で、鑑賞してみたいと思った。なにしろ原田マハ氏の本には、こんなふうに書かれている。

モネの睡蓮が展示されている部屋は、天井からうっすらと自然光が入るように設計されており、午前中の光が睡蓮の池をより輝かせ、まるで本物の池のほとりに佇んでいる気分になります。

『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術 』(p118)

 わたしが今まで観てきたのは、やわらかな光や、曇天の太陽の光の下の「睡蓮」だったから。もちろんそれも、何度も通い詰めてしまうくらいに魅力的だったわけだけど。

 朝一番のフェリーで向かっても、島の変わりやすい天候の下でなかなかそれが叶わないなか、今回は、8月に訪れたとき、(朝の光ではないけれど)まったく予期せぬ形で、強い光の下で鑑賞することが「叶ってしまった」話、となる。

■嵐の予報から、一転して快晴へ

 8月の最終週は、悪天候の予報に翻弄された。週間天気予報を横目に旅程を何度も変え、その旅は結局、かなり短いものとなった。

 瀬戸内国際芸術祭の会期中なのでほかの島にも渡ってみたくて、直島は最終日とした。ただ、午後の天気予報は晴れから再び悪天候に変わったため、高松発の始発フェリーで渡って、14時台の便で戻ろうと考えていた。

 地中美術館は10時開館なので、9時半開館のベネッセハウス ミュージアムに入り、乗れるならバスを利用しながら、李禹煥美術館、地中美術館の順で回れば、それぞれ十分な時間がとれるはずた。

その日、午前中の空と海。暗雲が立ち込めている景色もまた美しい

 しかし途中で雲の合間の晴天、という感じではない、強い日差しが射しだした。天気予報をチェックすると、直島のその日の予報は快晴に変わっていた。

地中美術館チケットセンターから美術館へ向かう小路。蓮、柳といえば、フランスのジヴェルニーにある、モネの「水の庭園」
館内に入る前に、このような眺望が望める。すっかり晴れ渡っている
冒頭の写真のように、曇天の下ではどこか謎めいて見えるエントランスも、この日は明るく輝いていた

■「こんなに明るかったっけ?」

 階段を下り、「睡蓮」の展示室へと向かう。展示されているのは「睡蓮の池」(1915-26年)、「睡蓮-草の茂み」 (1914-17年)、「睡蓮」 (1914-17年)、「睡蓮の池」( 1917-19年)、「睡蓮-柳の反映」( 1916-19年)の5作品。

 印象派を代表する画家、クロード・モネが手掛けた最晩年の「睡蓮」シリーズ5点を自然光のみでご鑑賞いただきます。部屋のサイズ、デザイン、素材はモネの絵画と空間を一体にするために選定されています。

同上

 靴を脱いでスリッパに履き替え、まずアプローチともいえる、薄暗い広い空間に入る。光のない空間のかなたに大睡蓮をまっすぐに臨み、池に向かうかのようにどんどん近づいていける、心憎い設計だ。

 展示室全体は、オフホワイトの大理石のキューブ状のタイルが敷き詰められた空間で、空調が絵を守っている。寒い時期は、ここに入ると、温水プールに入るときのような湿気とほのかなあたたかさを感じたものだ。ただその日は、そこにまで明るさが入りこんできていた。

 「こんなに明るかったっけ?」それが、第一印象だ。

まさかの晴天に

 白い空間である展示室には、天井から細く差し込む陽光が反射して、「光がまわっている」状態だった。その下の睡蓮たちは、なんというか、楽しそうだった。水面はきらきらと輝き、花や葉は、そこに在ることのすばらしさを、無邪気に楽しんでいるような。

 きれいだなあ。という、まるで子どものような素直な気持ちがこみあげてきた。世界の美しさが増幅されて閉じ込められたかのようなこれらの絵は、やっぱりすごい。

 わたしは展示室をゆっくり何周かして、そして満足してしまった。えっ?

■考えすぎていただけ、だったのだろうか?

 そうなのだ。わたしはとても満足して、早々に展示室を出てしまった。それまでは、大睡蓮の前に、30分以上も佇むこともあったというのに。

 中心のない、あやふやなものを観ると、意識がそのなかに入り込んで思索が始まってしまう(と、どこかで読んだ)。だから、曇天の下の睡蓮の池はゲートとなって、わたしを引きこんでいたのかもしれない。それは何でもない、自分の堂々巡りの中へ。

 でも、明るい光の下でのきらめく水面は、そんな迷いに入りこむ隙を与えることなく、ひたすらに明るく、瞬間を楽しんでいた。そしてその明るさはわたしにも伝わり、「明るくハッピーな気持ちをありがとう!」とばかりに満たされてしまったのだと思う。

 いやいや、待て待て、ちょっと考えるんだ。と、薄暗いアプローチに設置されている長椅子に座った。

 まず思ったのは、もしかして、「印象派の絵って、そもそもそういうものではないのか?」ということ。一瞬の光を捉えるために、発明品であるチューブ式絵の具を携えて屋外にイーゼルを立て、とにかく早く描く。光とは、うつろうものだから。だから当然、個々の作品は塗り込まれることないし、その型破りの手法は当初「未完成」と揶揄された。後年、モネは異なる光の下で同じモチーフを何枚も描く「連作」の手法を生み出すことになる。

 モネは晩年の大作、これら大睡蓮をアトリエで描いたけれど、その元にある、ある日の一瞬の光の下での池、は変わらないと思う。それをたまたま曇天の下で鑑賞したことで、絵を観ることとは異なる自分の中に入り込んでしまい、その中をさまよっていただけなのでは?ということ。

 それは絵画鑑賞とは別で、絵については「光と自然の美に感動していればいいのだ、以上」ということなのか? と。

■そしてここでも課題は持ち越される

 ただ、それに対しても「ちょっと待て」という自分の声がする。その旅でのもう一つの大きな経験、犬島精錬所美術館の一件での学びだ。

 わたしは犬島精錬所美術館の柳幸典のインスタレーション作品において、テーマである「近代×三島由紀夫」について4年越しくらいでモヤモヤしていたのだけれど、今回再び訪れて、その天候の気持ちよさも手伝ってか、安易なところで結論づけようとしていた。

 でもその後、似た問題意識を持っていた人の存在を知り、もう少し向き合ってみようと、再び宿題をもらった状態になっている。

 だから、ここでも安易に結論づけるのはやめようと思う。これからも何度も訪れることで、引き続き、二度と同じもののない陽光の下で「睡蓮」が鑑賞できる。その回数をデータとして、自分の反応を、注意深く観察してみよう。

 もちろん、アートは、どんな観方をしても、その人の自由だ。だからここに書き連ねてきたこと、書いていくことは、ごく私的な感想でしかない。

 ただ、何にせよ、これだけ人を惹きつけてときに迷わせてしまう作品には、底知れぬパワーがあるのだと思う。莫大な金額を払って作品を購入し、展示するための美術館まで作った人たちがいて、そこにわざわざ、フェリーに乗ってやって来るわたしのような者までいる。

 わたしはアートの専門家ではないけれど、アートがとてつもないものであるらしいということは、これまでの自分の行動からも感じている。例えば水辺で思索にふけるにしても、佇んで水面を観ることはあっても、「その同じ場所にもう一度どうしても行ってみたい」とは、さすがにならないから。

 だから、「もう十分に満たされた」となるまで、そして飽きることがないならずっと、地中美術館を訪れることになると思う。

館内から外へ。ここからが撮影可能エリア

 

 

 

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