なくしたなまえ(リュウの物語)|こころのかけらをつなぐ②
この物語で探したい "こえにならないことば"
「わたしの名前、ここにある」
1. 朝の教室
リュウは、教室の一番後ろの席に座っていました。
先生が出席を取る声が聞こえてきます。
「田中さん」「はい」 「佐藤くん」「はい」 「山田さん」「はい」
一人ずつ名前を呼ばれて、元気に返事をする声。でも、リュウには、その声がとても遠くに聞こえました。
「斉藤リュウくん」
先生がリュウの名前を呼びました。リュウは、小さく手を挙げました。「はい」という声は、ほとんど聞こえませんでした。
なぜなら、リュウは自分の名前を覚えていないのです。
正確には、覚えているけれど、その名前が「自分のもの」だという感覚がないのです。まるで、誰か知らない人の名前を借りているような、そんな気持ちでした。
2. それが始まった日
三ヶ月前のことでした。
クラスで自己紹介をする時間がありました。一人ずつ前に出て、自分の名前と好きなことを発表するのです。
リュウの番になりました。
「僕の名前は斉藤リュウです。読書が好きで、特に古い童話が好きです」
そこまで言った時、クラスの何人かがくすくす笑いました。
「リュウって、ドラゴンみたいな名前だね」 「古い童話って、幼稚園生みたいじゃん」 「なんか変わってるよね」
笑い声が教室に広がりました。先生は注意してくれましたが、リュウの心には、深い傷が刻まれました。
その日から、リュウは自分の名前が嫌いになりました。そして、だんだんと、自分という存在そのものが嫌いになっていきました。
3. 名前のない日々
リュウは、なるべく自分の名前を言わないようになりました。
グループ活動の時も、「僕が」と言うだけで、名前は言いません。友達に話しかけられても、うなずくだけ。
家でも同じでした。お母さんが「リュウ」と呼んでも、なんだか他人を呼んでいるような気がします。
「その名前、本当に僕のかな?」
リュウは、鏡を見ながらつぶやきました。鏡の中の自分も、なんだか知らない人のようでした。
学校では、だんだん「あの子」「後ろの席の子」と呼ばれるようになりました。名前で呼ばれることが少なくなって、リュウはほっとしていました。
でも、心の奥では、とても寂しく感じていました。
4. 図書室の出会い
ある日の昼休み、リュウは図書室にいました。
誰もいない静かな場所で、童話の本を読んでいました。でも、文字を追っているだけで、内容が頭に入ってきません。
「君、毎日ここにいるね」
振り返ると、図書室の司書の先生が立っていました。優しそうな、おじいさんの先生でした。
「僕は田所と申します。君の名前は?」
リュウは、困ってしまいました。自分の名前を言いたくないのです。
「...わからないです」
「わからない?」
田所先生は、椅子に座ってリュウの隣に来ました。
「名前がわからないのかい?」
リュウは、小さくうなずきました。嘘ではありませんでした。本当に、自分の名前がわからなくなっていたのです。
「そうか...それは困ったね」
田所先生は、しばらく考えていました。
「じゃあ、一緒に名前を探してみようか」
5. 名前を探す旅
「名前を探すって、どうやって?」
リュウは、初めて田所先生と話しました。
「まずは、君がどんな人なのか、教えてもらおうか」
田所先生は、一冊のノートを取り出しました。
「好きなことは?」
「...読書です。特に、童話」
「どんな童話?」
「古い童話です。グリム童話とか、アンデルセン童話とか」
田所先生は、ノートに書き込みました。「読書好き」「童話愛好」
「他には?」
「静かなところが好きです。ひとりでいるのも、好きです」
「静寂愛好」「内省的」
ノートには、リュウの特徴が書かれていきました。
「じゃあ、嫌いなことは?」
リュウは、少し考えました。
「大きな声で話すこと。みんなの前に出ること。それから...」
「それから?」
「自分の名前を言うこと」
田所先生は、ペンを止めました。
「なぜ、自分の名前を言うのが嫌いなんだい?」
6. 名前の重さ
リュウは、三ヶ月前のことを話しました。
自己紹介の時のこと。クラスメートの笑い声のこと。そして、それから自分の名前が嫌いになったこと。
田所先生は、静かに聞いていました。
「リュウ...素敵な名前じゃないか」
「でも、みんな笑ったんです。ドラゴンみたいだって」
「ドラゴンは、強くて、賢くて、神秘的な生き物だよ。多くの文化で、とても大切にされている」
田所先生は、本棚から一冊の本を取り出しました。『世界の龍の物語』という本でした。
「君の名前の『リュウ』は、きっと『龍』から来ているんだね。龍は、知恵と力の象徴なんだ」
ページをめくりながら、田所先生は続けました。
「中国では、龍は皇帝の象徴。日本では、水の神様。ヨーロッパでは、宝物を守る賢者」
リュウは、本の絵を見つめました。そこには、美しい龍たちが描かれていました。
「君の名前は、とても意味のある、素晴らしい名前なんだよ」
7. 名前の物語
田所先生は、リュウに宿題を出しました。
「家に帰ったら、お父さんやお母さんに聞いてみよう。どうして『リュウ』という名前にしたのか」
その日の夕食の時、リュウは勇気を出して聞きました。
「お母さん、どうして僕の名前を『リュウ』にしたの?」
お母さんは、びっくりしました。リュウが自分から話しかけることは、最近ほとんどなかったからです。
「リュウ...それはね、あなたが生まれる前に見た夢のことよ」
お母さんは、優しく話し始めました。
「夢の中で、美しい龍が現れたの。その龍は、とても優しくて、賢そうで、困っている人を助けている龍だった」
「そして、その龍が言ったの。『この子は、多くの人に優しさと知恵を分けてくれる子になる』って」
お父さんも話に加わりました。
「僕たちは、君がその龍のように、優しくて賢い人になってほしいと思って、『リュウ』という名前をつけたんだ」
リュウの目に、涙が浮かびました。
「本当に?」
「本当よ。あなたは、私たちの大切な龍なの」
8. 名前の力
次の日、リュウは田所先生に報告しました。
自分の名前に込められた両親の想い。龍が象徴する優しさと知恵のこと。
「素晴らしいじゃないか。君の名前には、こんなに深い意味があったんだね」
田所先生は、ノートに書きました。「リュウ=優しさと知恵の龍」
「でも、まだ自分の名前を好きになれないの?」
リュウは、正直に答えました。
「少し...ましになったかもしれません。でも、まだ怖いです。また笑われるかもしれないから」
「そうだね。でも、君の名前の本当の意味を知った今、どう思う?」
リュウは、しばらく考えました。
「龍は...強いですよね。笑われても、負けない強さがあるかもしれません」
「そうだね。そして、龍は賢いから、人の心もわかる。笑う人たちも、きっと君の本当の素晴らしさを知らないだけなんだ」
9. 小さな勇気
それから一週間後、グループ学習の時間がありました。
リュウは、いつものように静かに座っていました。でも、今度は違いました。胸の奥で、小さな龍が動いているような気がしたのです。
「図書委員を決めます。誰かやりたい人はいませんか?」
先生が聞きました。図書委員は、図書室の整理を手伝ったり、本の紹介をしたりする係です。
リュウは、本が大好きでした。でも、今まで手を挙げる勇気がありませんでした。
(龍は強い。龍は賢い。僕も龍だ)
リュウは、そっと手を挙げました。
「はい」
小さな声でしたが、はっきりと聞こえました。
「斉藤くん?やってくれるの?」
先生が聞き返しました。リュウは、もう一度、少し大きな声で言いました。
「はい。僕、斉藤リュウがやります」
自分の名前を、久しぶりに自分から言いました。
10. 新しい始まり
図書委員になったリュウは、田所先生と一緒に図書室で働くようになりました。
本の整理をしたり、新しい本を紹介したり。リュウは、とても楽しく感じました。
ある日、クラスメートの一人が図書室に来ました。
「あ、リュウくん。何か面白い本ない?」
以前なら、名前を呼ばれるのが嫌でした。でも、今は違いました。
「どんな本が好き?」
リュウは、自然に答えていました。
「冒険の話とか」
「じゃあ、これはどう?『龍と少年の冒険』という本だよ」
リュウは、その本を手に取りました。表紙には、美しい龍と少年が描かれていました。
「龍の話?面白そう!でも、リュウくんってよくこういう本知ってるよね。名前も龍だし、やっぱり龍が好きなの?」
「うん」リュウは、微笑みました。「僕の名前は、優しくて賢い龍から来てるんだ。お父さんとお母さんが、そんな風になってほしいと思ってつけてくれた」
「へえ、かっこいいじゃん!僕も龍みたいな名前だったらよかったな」
その子は、本を借りて帰っていきました。リュウは、初めて自分の名前を誇らしく思いました。
11. 図書室での発見
田所先生は、リュウに特別な本を見せてくれました。
「これは、世界中の『名前の意味』について書かれた本だよ」
ページをめくると、いろいろな国の、いろいろな名前が載っていました。
「見てごらん。どの名前にも、特別な意味がある。親が子どもに込めた想いがある」
「田中」は「田んぼの中」で豊かさを表し、「佐藤」は「砂糖」ではなく「佐」(助ける)と「藤」(美しい花)を意味する。
「みんな、それぞれ素敵な意味があるんだね」
リュウは、初めて他の人の名前も興味深く感じました。
「そうだよ。君がクラスメートの名前を笑わないように、彼らも君の名前の本当の意味を知ったら、笑ったりしないと思うよ」
「でも、どうやって教えたらいいの?」
田所先生は、にっこりと笑いました。
「君にしかできない方法があるかもしれないね」
12. 名前の発表会
リュウは、思い切って先生に提案しました。
「クラスで『名前の意味発表会』をやりませんか?」
先生は、素晴らしいアイデアだと言ってくれました。
発表会の日、リュウは最初に手を挙げました。
「僕の名前は『リュウ』です。龍という意味です」
今度は、誰も笑いませんでした。みんな、真剣に聞いています。
「龍は、優しくて賢い生き物です。世界中で、とても大切にされています。お父さんとお母さんは、僕がそんな龍のようになってほしいと思って、この名前をつけてくれました」
リュウは、図書室で調べた龍の話もしました。中国の龍、日本の龍、ヨーロッパの龍。どれも、知恵と力の象徴だということ。
「僕は、この名前を誇りに思っています」
発表が終わると、クラスのみんなが拍手をしてくれました。
「リュウくん、かっこいい名前だね」 「僕も自分の名前を調べてみたい」
それから、みんなが自分の名前の意味を発表しました。どの名前にも、親の愛情が込められていることがわかりました。
13. 名前を取り戻した日
発表会の後、リュウは田所先生に報告しました。
「先生、僕、自分の名前を取り戻しました」
「どんな気持ち?」
「最初は、とても怖かったです。でも、話しているうちに、だんだん誇らしくなりました」
リュウは、図書委員の仕事も続けました。本を通じて、多くのクラスメートと話すようになりました。
そして、気がついたことがありました。
「先生、僕の名前を笑った子たちも、本当は悪い子じゃなかったんです」
「そうだね。きっと、君の名前の本当の意味を知らなかっただけなんだ」
「みんな、それぞれ素敵な名前を持っているって、今ならわかります」
田所先生は、リュウの頭をそっと撫でました。
「君は、本当に優しくて賢い龍になったね」
14. 新しいリュウ
今、リュウは自分の名前が大好きです。
朝の出席確認で「斉藤リュウくん」と呼ばれると、大きな声で「はい!」と答えます。
図書委員として、本の紹介をするときも、「僕、斉藤リュウがおすすめする本は...」と、しっかりと自分の名前を言います。
新しく転校してきた子がいると、リュウは自分から話しかけます。
「僕の名前は斉藤リュウ。龍という意味だよ。君の名前は?」
そして、その子の名前の意味も一緒に調べてあげます。
リュウは、自分の名前だけでなく、自分自身も取り戻しました。本が好きで、静かで、優しい自分。それが、リュウなのです。
15. 龍の心
ある日、リュウはお母さんに言いました。
「お母さん、リュウという名前をつけてくれて、ありがとう」
お母さんは、とても嬉しそうでした。
「どういたしまして。でも、どうして急に?」
「この名前のおかげで、僕は自分が誰なのかがわかったから」
リュウは、この三ヶ月間のことを話しました。名前を嫌いになったこと、田所先生との出会い、そして名前を取り戻したこと。
「僕は、優しくて賢い龍になりたいと思う。お父さんとお母さんが願ってくれたように」
お母さんは、リュウを抱きしめました。
「あなたは、もうすでに素晴らしい龍よ」
その夜、リュウは鏡を見ました。三ヶ月前とは違って、そこには確かに「リュウ」がいました。
自分の名前を、自分の存在を、誇りに思える「リュウ」が。
「僕の名前は、斉藤リュウ。優しくて賢い龍です」
鏡の中のリュウも、にっこりと笑い返してくれました。
おわり
作者より
この物語は、自分の名前、そして自分自身を嫌いになってしまった少年リュウが、名前の本当の意味を知ることで自己肯定感を取り戻していく物語です。
現代社会では、多くの子どもたちが他者からの評価や批判によって、自分自身を否定的に見てしまうことがあります。特に、名前や文化的背景への偏見は、子どもたちのアイデンティティに深刻な影響を与えることがあります。
しかし、すべての名前には意味があり、すべての子どもには価値があります。この物語を通じて、子どもたちが自分の名前の意味を知り、自分自身を大切に思えるようになってくれることを願っています。
そして、周りの大人たちには、子どもたちの名前や個性を尊重し、その素晴らしさを伝える役割があることを伝えたいと思います。
あなたの名前も、あなた自身も、とても大切で素晴らしいものです。
「こころのかけらをつなぐ」シリーズは、共創童話集『こえにならないことばをさがす』の第二部として生まれました。
第一部では、さまざまな年齢の子どもたちに届くよう、ひとつの物語を【一般向け/小学校低学年向け/幼児向け】に文体変換して公開してきました。多くの読者から温かい声をいただき、深く感謝しています。
そしてこの第二部では、主に小学校高学年から中学生を読者に想定した、より現代的な童話を紡いでいきます。
息が詰まるようなニュースや、不安な社会の空気が、子どもたちの感性を知らず知らずのうちに閉じ込めてしまってはいないか――。
そんな想いから、この物語が生まれました。
忘れていたなにかを思い出すきっかけとして。
そして、静かだけれど確かな「こえ」が、読者のみなさんの心にも届きますように。
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