苦痛の極限に「生きる意味」はあるのか?
生きる意味とは「やりたいこと」をやることではない。
生きる意味とは「今、成すべきこと」である。
こんなことを言われると、えらい厳しい話をしてるように思われるかもしれません。
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しかし、逆なんです。
じつは、最後の最後、苦しみの極限状態で私たちを救ってくれるのは「今、成すべきこと」。
「生きるメリット」ではなく「生きる意味」なのです。
たしかに「生きるメリット」がたくさんあった方が、生きている理由を実感しやすいですよね。
おいしいものを食べ、就きたい仕事に就き、楽しいことをして、欲しいものを手に入れることで、私たちは、
「ああ、生きてるかいがあるなぁ~」
と満足することができるでしょう。
素敵な人生です。
でも・・・、
もしそれらの「生きるメリット」をすべて奪われる状況になったとしたらどうでしょうか?
激しい暴力。
耐えがたい痛み。
かのビクトール・フランクルが経験したナチスの絶滅収容所は、まさにそのような場所でしょう。
自由を奪われ、苦しみと痛みばかりが与えられる日々。
「生きるメリット」が、完全に断たれた場所。
そのような極限的な状況でも「生きる意味」はあると、フランクル本人は言い切ります。
この苦しみも痛みも決して無意味ではない。
成すべきことを成すためにこの苦痛を耐え、生き抜くことを選ぶ。
そこに「生きる意味」を発見することができる。
なんのよろこびもメリットも見当たらない、苦痛しか存在しないこの瞬間の「命」に意味を感じることができる。
「生きる意味」に救われるというのです。
つまり、いっさいのメリットが断たれた極限状態においても、「生きる意味」は決して失われないということ。
このような話を聴くと、
「成すべきことのため?」
「それがなんで救いになるんだ?」
「そんな状態で生きていてなんか得があるの?」
「そこまで苦しみつづける対価は?」
「そうまでして生きたくないでしょ?」
「どう考えても死んだ方がマシでは?」
という思いが湧き上がってくるかもしれません。
以前の私も、ずっとそうでした。
それは「生きる意味」を「生きるメリット」としてとらえていたからにほかなりません。
苦痛に意味があるなんて言われても、苦しいもんは苦しい。
そんなもの、いったいなんの役に立つんだ。
苦しいままなら、まさに「意味ないじゃん」と。
そんなふうに「生きる意味」を「生きるメリット」と取り違えたまま、その救いの価値を理解できずにいました。
でも、ふと思ったのです。
自分が中学生の頃のことを。
家族から私への激しい虐待は、ピークを迎えていました。
常軌を逸した暴力のなか「こんどこそ死ぬ」と絶望したことが、いくどもあります。
まさにその瞬間・・・、もし誰かに「生きるメリットはあるよ!」と言われたとしたら。
どうだったでしょうか?
「生きていればいいことがあるよ!」
「やりたいことを自由にやればいいんだよ!」
「それこそが生きる理由だよ!」
そんなふうに言われたら、私は、薄れゆく意識のなかでどう感じたでしょうか?
「冗談言うなよ」と、その人に侮蔑と怒りしか感じなかったかもしれません。
この瞬間のどこにメリットの入るすき間があるのだ、と。
そして平穏に生きているその人と自分とのあまりの距離の遠さに、かえって絶望を深めたことでしょう。
(もちろんじっさいは、そんなことを考える余裕はなかったんですが)
でも、そこにもし「生きる意味」があるのだとしたら。
つまり、いっさいのメリットが断たれた苦痛しかないその瞬間に「生きる意味」があるのだとしたら。
死んだ方がマシな、でも死ねずに生きざるをえないというその地獄に「生きる意味」があるのだとしたら。
暴力に打ちのめされるだけのこの惨めな命に「意味」があるのだとしたら。
誰かのため、何かのため、成すべきことを成すためにこの苦痛があるのだと、もしも心の底から実感できるのだとしたら。
私は間違いなく、その「救い」にすがったでしょう。
ただ無意味に苦しんでいるのではない。
苦痛にまみれた自分の「命」に意味を与えてくれるものがある。
ならば、それにすがるしかない。
そうしたくてそうするのではない。
そうしなければ耐えられないからそうするのです。
この苦痛が無意味に延々とつづくというおぞましい恐怖に、耐える意味を与えてくれるから。
それが「生きる意味」だと、今では理解することができます。
「生きるメリット」では救われない。
「生きるメリット」は極限状態ではなんの出番もない。
いえ、そもそも入り込むすき間がないのです。
もちろん「生きる意味」があるから、すべての苦痛を必ず耐え抜けるとはかぎりません。
「生きる意味」を感じることを放棄したくなるほどの苦しみや痛みがあることは、厳然とした事実です。
じっさい、そのためにみずから命を断とうとする方からのご相談が絶えることはありません。
その苦しみや痛みの切実さをヒシヒシと感じながら、死を選びたくなる気もちに私も思わず共感せずにはいられません。
それほどまでの苦痛がある。
だからといって、それは「生きる意味」がないということにはならない。
「生きる意味」は、どんなときも常にある。
こちらが生きたいかどうかなど気にもとめず「生きる意味」はそこにある。
そして、それは決して失われない。
こちらが手放さないかぎり「生きる意味」が失われることは決してない。
だからこそ「救い」なのです。
その救いに手を伸ばすかどうかは、自分の決断にゆだねられている。
残酷なまでに、私たちの手にゆだねられてしまっている。
世界が私たちに「生きる意味」を届けてくれたとしても、それを掴むのは私たち自身の手。
「生きる意味」を「生きる意味」にできるかどうかは、最後の最後、私たちの決断にかかっているのです。
なぜなら「命の使い方」は、自分が勝手に決めていいものではない。
かといって、世界から一方的に決められるものでもない。
「世界と自分」が、共につむぎ出すものなのですから。
生きづらさ専門カウンセラー
脱世間起業塾Adic塾長
しのぶかつのり
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