「生きる意味」と「生きるメリット」の違い
あなたの「生きる意味」はなんでしょうか?
いえ、その前に・・・、
「生きる意味」とは、そもそもなんなのでしょうか?
私たちは、「私の命は私のもの」と言ってはばからず、「満足」を追い求めつづけています。
まるで、それこそが自分の「生きる意味」だと言わんばかりに。
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そんな身勝手なことのために、命があるはずがない。
というか、そんな都合のいい世界であるはずがない。
「満足」は目的ではなく、命を使うための手段に過ぎない。
そう頭ではわかっていても、「満足」のために生きることをどうしてもやめられない・・・。
いったいどうして私たちは、そのような残念な事態におちいっているのでしょうか?
それは「生きる意味」と「生きるメリット」を取り違えているからかもしれません。
だから堂々と「満足」というメリットを追い求めてしまう。
「だって、これこそが生きる意味なのだから・・・」と。
しかし「生きる意味」と「生きるメリット」は、まったくの別ものではないでしょうか。
これは、かのビクトール・フランクルの説明が明快でしょう。
ユダヤ人の精神科医であるフランクルは、第二次大戦中、ナチスの絶滅収容所を生き抜きました。
フランクルは、生きる意味を「人生から与えられた当為」ととらえていました。
参考文献:諸富祥彦「哲学的探求における事故変容の八段階論 」コスモス・ライブラリー
当為とは「今、まさに成すべきこと」という意味ですよね。
つまり、自分は今この瞬間、人生からなにを成せと求められているのか?
自分の命は、今、人生においてどのような責任を果たすべきなのか?
その答えこそが「生きる意味」だというのです。
だからフランクルは、ナチスの収容所の苦役のなかでも、精神科医として自分たち囚人の心理がどのように変化していくのかを俯瞰し考察しようと努めました。
そしてその内容を大学で講演する想像をし、地獄の苦しみを耐え抜いていたのです。
こんな過酷なエピソードを語られてしまうと私たちは、ついつい、
「そんな苦しい思いまでして、なんで生きなきゃいけないの?」
と、と考えてしまいますよね。
じつはその反応こそが、私たちが「生きる意味」と「生きるメリット」を取り違えている証ではないでしょうか。
そんなにも苦しいことをするメリットが見当たらない。
そんな人生に生きてる価値はない。
だから生きる意味はない、と。
そんなふうに「生きる意味」を「生きるメリット」として理解してしまうのです。
そしてそれが、私たちのごく自然な感覚ではないでしょうか。
でも、「生きる意味」は「生きるメリット」のことではありません。
だって収容所に入れられ、家族から引き離され、殴られ、蹴られ、1日に水のようなスープ一杯しか与えられず、極寒の雪のなか裸足同然で長時間の土木作業を強いられ、動けなくなればガス室に送られ殺される。
そんな苦痛しかない状況に「生きるメリット」なんてあるはずがありません。
あるのは「生きる意味」のみです。
だからこそ救いであり、フランクルが最後に支えとしたものなのではないでしょうか。
「生きるメリット」がすべて絶えたあとも、そこにただ一つ残り、みずからの命に意味を与えてくれるもの。
それこそが「生きる意味」。
「生きる意味」は「生きるメリット」とは違う。
「生きる意味」は「生きる意味」であり「生きる意味」でしかないのです。
だから「生きる意味」と「生きるメリット」の取り違えに気づかないかぎり、私たちは自分の命を自分の「満足」のために最優先で使ってしまうでしょう。
そして、より楽しく、よりおいしく、より気もちいい「満足」を手に入れては、
「これこそが私の生きる意味!」
と、歓喜の声をあげるのではないでしょうか。
こうして命は、自分を「満足」させるための手段にされてしまう・・・。
なんとかして、このいたたまれない状況から脱け出さなくてはいけませんよね。
では、なぜそもそも私たちは、「生きる意味」を「生きるメリット」だと勘違いするようになってしまったのでしょうか?
それを解決できれば、あるべき「命の使い方」に一歩近づけそうです。
そこで次回は、なぜ私たちが「生きる意味」と「生きるメリット」を取り違えてしまうのかという謎を探求してみたいと思います。
生きづらさ専門カウンセラー
脱世間起業塾Adic塾長
しのぶかつのり
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