なぜ「私の命は私のもの」という勘違いをしてしまったのか?
タイトルにあるとおり・・・、
私たちは、「私の命は私のもの」という勘違いをしていることがわかりました。
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いったいなぜ、私たちはそんな残念な勘違いをしてしまったのでしょうか?
だって、ほんの少し考えたら、そんな自分にとって都合のいい世界線、あるはずないとわかりそうなものなのに・・・。
にもかかわらず、どうして「私の命は私のもの」というご都合主義を信じ切ってしまったのでしょうか?
それは、「満足」の目的と手段を取り違えているからではないでしょうか。
うれしい、楽しい、おいしい、気もちいいといった「満足」。
もともと、このような「満足」は、命を使うための手段であったはずです。
たとえば、命を使うために必要な栄養をとりやすくする手段として、おいしいという「満足」がある。
また、命をつなぐためにセックスしやすくする手段として、気もちいいという「満足」がある。
しかし、これらの「満足」があまりにも魅力的すぎるということなのでしょう。
いつのまにか、「満足」を得るのが目的になってしまった。
つまり、もともと手段であったはずの「満足」が、目的になってしまったのです。
よりおいしいものを食べて「満足」したい。
より気もちいいセックスをして「満足」したい、と。
そしてこの「満足」は自分が得るものですから、当然、命は自分ためにあるものでなくては困ります。
こうして私たちは、「私の命は私のもの」というご都合主義の世界線を当然のもののように感じるようになってしまったのかもしれません。
そして「満足」を得るために命を使っている・・・。
これは言わば、ガソリンを買うために車を使っている状態です。
車でどこかに行くためのガソリンなのに、なぜかガソリンばかり欲しがっている。
そして、たくさんのガソリンを手に入れるために車を走らせ、次から次へとガソリンばかり買い集めている。
もしそんな謎の行為に夢中になっている人を見たら、
「なんで車買ったの・・・?いいから車をちゃんと使いなよ・・・」
とツッコミを入れたくなるのではないでしょうか。
にもかかわらず、なぜ私たちはこの「ガソリン集め」という謎の行為をやめられないのでしょうか?
いくらガソリンが魅力的だからといって、ガソリンばかり集めていたら、その奇行に気づいてもよさそうなものです。
なのになぜ「ガソリン集め」をやめられないのか?
つまり、どうして私たちは「満足」ばかり追いかけるという謎の行為をやめられないのでしょうか?
次回は、その答えを探求してみたいと思います。
生きづらさ専門カウンセラー
脱世間起業塾Adic塾長
しのぶかつのり
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