見出し画像

私の「命」は誰のものか?

私たちは、主に命を「自分の満足のため」に使っているようです。

▼詳しくはコチラ

たとえ人のために使っていたとしても、最終的には、自分の満足につながる使い方をしている。

いったいなぜなのでしょうか?

それは「私の命は私のもの」だと感じているからではないでしょうか?

「私」が命を所有している。

「私」の命なのだから「私」のために使うのはごく自然なこと。

そんな感覚です。

これは、いたって一般的な感覚ではないでしょうか。

じっさい、生きづらさ専門カウンセラーとして「命の使い方」や「生きる意味」に深く悩む方のご相談をよくお受けします。

そのような方たちでさえ、「私の命は私のもの」という立脚点に疑問をもつ方は、ほとんどおられないんですね。

よりライトな世間の感覚では、なおさら自然と「私の命は私のもの」と感じておられる方が多いのではないでしょうか。

でも、本当に「私の命は私のもの」なのでしょうか?

これを考えるためには、生じた順番を手がかりにしてみるといいかもしれません。

「命」と「私」の生じた順番です。

「命」は、「私」より先に生じています。

「命」がまずあって、あとから「私」という感覚が生じてきた。

それはあきらかですよね。

「命」から「私」が生じたのですから、言うなれば、命は母なるものです。

この時点で、「私の命は私のもの」と、命を所有物あつかいしてしまうことに、だいぶ違和感が出てきますよね。

しかも「私」が生じたのは「命」の力だけではありません。

親をはじめ他の無数の命、空気、水、それこそ地球であり、いろいろな刺激を与えてくれた宇宙全体の力です。

つまり「私」は、「世界」から生まれたわけです。

そんな「私」が、先に生じた「命」を所有物あつかいし、ましてや「世界」をさしおいてそれを自分のために使うのが当然だと思ってしまうのは・・・、

私たちは、だいぶ激しく思い上がっているのだなと、認めざるをえません。

命センパイ、世界センパイ、申し訳ありません。

そう考えると、『世界が「私」を所有している』という方が、まだ近いのではないでしょうか。

もちろん、その世界には「私」も含まれています。

だから「私」は、「世界と私」の共有財産。

「私」は、「私」だけのものではないのです。

となると当然、「命」も「私」だけのものではありません。

「命」は、「世界と私」の共有財産なのです。

その共有財産の使い方を、「私」が勝手に決めていいはずがありませんよね。

いえ、決めていいとか悪いではなく、じつは決めるのは不可能なのです。

なぜなら、「命」がなんのための共有財産なのか「私」にはわかっていないのですから。

明治大学教授で教育学・心理学者の諸富祥彦も、

自己自身を存在根拠としない人間は、その本来的な在り方を自分自身で決めることはできない。

人間形成における<エゴイズム>とその克服過程に関する研究」1994

と述べています。

たしかにそうですよね。

目的をもって自分で自分を生み出したわけでもないのに、そのあるべき「命の使い方」を自分だけで導き出すのは不可能でしょう。

それはたとえ実の親であっても不可能で、その親にもまた親があり、その親にもまた親があるわけで、連なる「命」の究極の目的は人間には遡りえない。

それに気づかず、自分の命は自分のものと考え、自分の満足のために「命」を使っている・・・。

どうもそれが、私たちの現在の姿だと言えそうです。

その残念ぶりを自覚し、謙虚になり、私たちは「命の使い方」にもっと慎重になるべきではないでしょうか。

だって「命」は「私」だけのものではない。

「命の使い方」は人間だけでは知り得ない。

「世界と私」が、ともに紡ぎだしていくしかないのですから。

生きづらさ専門カウンセラー
脱世間起業塾Adic塾長
しのぶかつのり

▼つづきはコチラから


いいなと思ったら応援しよう!