「やりたいこと」という魔物が命の使い方を狂わせる
「やりたいことが見つからないんです・・・」
長年、そんなご相談があとを絶ちません。
やりたいことがパッと思い浮かばない。
少しはあるけど、それを手に入れるために本気で努力する気にはなれない。
じっさいにやってはみたけど、やっぱり長くはつづくない。
そしてまたノートを広げては「本当にやりたいこと」を書き出してみる。
でも、もう見当たらない。
やりたいことがない自分は、どこかおかしいのではないか・・・?
そんなふうに切実に悩んでしまうのです。
いったいなぜでしょうか?
それは「やりたいことさえ見つかれば人生が充実し幸せになれる」と、無自覚のうちに信じ込まされたからかもしれません。
とくに、生きづらい人にはその傾向が強くあります。
なぜなら、人生があまりにも苦しくて虚しくて、「やりたいこと」に一発逆転の望みをかけざるをえないからです。
生きづらい人は、深く悩んできたがゆえに、あらゆる解決策を模索してきた方ばかりです。
そのため多くの本を読んでおられます。
自己啓発系、ビジネス系、心理系、スピリチュアル系・・・
それらの薦める第一ステップには、たいていこんな質問が記されています。
「あなたのやりたいことは?」
すべてはそこから。
まるで熱中できる「やりたいこと」があるのが、当然かのように話を進められてしまう。
私はこれを「やりたいこと教の第一教義」と呼んでいます。
一時期、日本はこの教義に席巻されました。
しまいには「心理カウンセラー」と名乗る人たちまでもが、なぜか「やりたいことで飯を食おう!」とあおり出すしまつ。
自分たちの資格ビジネスを拡大するために、「やりたいこと」を利用する事態に発展。
そう、日本は知らずしらずのうちに「やりたいこと教」に染まっていったのです。
やりたいことがあるのが前提の社会へと。
しかし、そこまで明確に「やりたいこと」がある人ばかりではありませんよね。
生きているだけで苦しい生きづらい人にとってはなおさらで、なにかをやりたいと思える余裕はほとんど残っていません。
にもかかわらず、右に行っても左に行っても「やりたいことは?」と聞かれる世界。
やりたいことはない、でもやりたいことを求められる。
やりたいことはない、でもやりたいことがないと人生は充実せず幸せにもなれない。
なんとかしてやりたいことを見つけて、やりたいことをやらなければ。
これは「やりたいことこそが生きる意味なのだ」という宗教観と言ってもいいでしょう。
つまり、やりたいことをやって「満足」することこそが生きる意味であるという観点。
そのような「メリット」を得ることこそが生きる意味なのだという観点です。
こうして私たちは「生きる意味」と「生きるメリット」を取り違えてしまった。
「生きる意味」を、人生から求められる当為(今、成すべきこと)ではなく、自分が求める「満足」のことだと勘違いしてしまったのではないでしょうか。
やりたいことをやって「満足」を得られないのであれば、生きてる価値なんてない。
だってそんな人生、なんのメリットもないのだから、と。
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その結果、私たちは「命の使い方」を狂わせてしまいました。
カウンセリングの現場でも、本当によくそのようなことが起こっています。
たとえば、長い期間をかけて、ご自分の生きづらさを受け容れていった。
その果てにようやく、生きづらい自分の「命の使い方」が見えてきた。
人生から求められた、自分にしかできない「今、成すべきこと」。
まさに「自分と世界」が、ともに「命の使い方」をつむぎだしたその瞬間。
「でもこれ…、私のやりたいことじゃないんですよね」
と振り出しに戻っていってしまう。
ようやくたどり着いた自分の果たすべき「命の使い方」を一瞬でとおり過ぎて、「やりたいこと教の第一教義」に戻っていってしまう。
そして「まずは、やりたいことをハッキリさせないとって思うんです」と、初めの一歩からやりなおそうとされるのです。
私たちに刷り込まれた「やりたいこと教の第一教義」は、かくも強力なものです。
冷静に考えてみれば、やりたいことをやる人生というのは、無数にある人生の選択肢の一つでしかないですよね。
しかし「やりたいこと教」に染まりきった日本のなかで、みずからその事実に気づくことは、言うほどかんたんではないでしょう。
そのあらわれとして、今でも日本では「やりたいこと教」の本が、出版不況をものともせず超ベストセラーになっています。
次回は、つい先日その超ベストセラーを読んで、私自身が「やりたいこと教」に入信しそうになった実話をご紹介したいと思います
生きづらさ専門カウンセラー
脱世間起業塾Adic塾長
しのぶかつのり
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