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「成すべきことを成せ」と言われても・・・

成すべきことを、成す。

そうすれば苦痛の極限でさえ「生きる意味」を見出せる。

と、威勢よく言ってはみたものの・・・

▼詳しくはコチラ

そもそも、この「成すべきこと」っていったいなんなんでしょうね?

それに、「成すべきこと」を成したからといって、どうして「生きる意味」を感じられるのか?

自分に、そんなたいそうな「成すべきこと」なんてあるとは思えないし・・・。

なかなかやっかいな代物ですよね。

私も、ずっとそう悩んでいました。

ただ、あることに気づいたとき、私は、この世界が「成すべきこと」に満たされていることを理解しました。

その「あること」とはいったいなんでしょうか?

それは「役割」です。

「わ!出た・・・役割!!!」

「自分を活かす役割が必ずあるとか言うんだろ!」

「それが見つからないから苦労してるんだよ!」

たしかに「役割」と言われるとそう感じられますよね。

でも、私のいう「役割」とは、世間でよく耳にする役割論とはちょっと違うんです。

「役割」は、そんなに特別なものではなく、誰もが今すぐ見つけられて「生きる意味」を感じられるものなんです。

それを実感していただくためには、私自身が「役割」に気づいた体験をお聴きいただくのが一番早いかもしれません。

当時私は、自分に「役割」なんてないと思っていました。

私は植物嫌悪症で、地球に生きているだけで猛烈に苦しい人間です。

また、PTSD、パニック障害、発達障害、双極性障害もあり、障害者福祉手帳も取得して、ほぼ寝たきりの状態でした。

そんな自分に果たせる「役割」なんて、あるわけないだろう、と。

でも、ボンヤリと考えごとをしていたとき、こんなことを思ったんです。

私たちの体って、いろいろな「役割」でできていますよね。

細胞とか、そのなかにある小さな器官とか。

それらが集まって、心臓とか骨とか目ができている。

そういった「役割」の集合体が「私」なわけです。

つまり、無数の「役割」が集まって「私」ができているわけです。

その無数の「役割」が集まってできた「私」が、ポンッと「私」になった瞬間。

なんの「役割」もなくなってしまう・・・。

そのことに、ふと強い違和感を覚えたのです。

これって、かなりおかしなことじゃないか?

というか、だいぶ都合がよくないか、と。

自分は「役割」の集合体。

無数の「役割」のはたらきで「私」ができている。

にもかかわらず、「私」になった瞬間に「役割」はなくなる。

そんなに都合のいい話ってある?

その瞬間、私の目の前に、ブワァ~っと自分の「役割」が見えてきたのです。

「道」に対しての「歩行者」という役割。

「レジ打ちする人」に対しての「客」という役割。

「電車」に対して「乗客」という役割。

ありとあらゆる「役割」でこの世界は満たされている。

というより、

「役割しかねぇじゃん!!」

と思ったのです。

つまり、この世界は「役割の集合体」だと気づいたんです。

この世界は、すき間なくビッシリと「役割」で満たされている。

それが「事実」であるということ。

それが、私が「役割」に気づいた瞬間です。

じっさいに目の前に無数の「役割」があって、この世界は互いに役に立ち合う「関係」でできている。

「父」という役割があり「子」という役割がある。

「教師」という役割があり「学生」という役割がある。

「椅子」という役割があり「座る人」という役割がある。

「常在菌」という役割があり「宿主」という役割がある。

このように「役割」とは、とくべつなものではなく、どこにでもあるものだということ。

そして「役割」を成立させるためには「役割」が必要なのです。

「父」という役割を果たすためには「子」という役割が必要です。

「教師」も「学生」がいてくれなければその役割を果たせません。

「学生」も「教師」がいてくれなければその役割を果たせません。

「椅子」も、自分に座ってくれる人がいなければ「椅子」の役割を果たせない。

「座る人」という役割があって、はじめて「椅子」は「椅子」の役割を果たせるのです。

だから当然、「役割」を成立させるために成すべきことがあります。

「椅子に座る」という成すべきことを成すことで、「椅子」を「椅子」にしてあげられる。

そうしてはじめて「椅子」は「椅子」という「役割」を果たすことができるのです。

つまり、生きているかぎり、自分を必要としている「なにか」が必ずあるということです。

「役割」を成立させるために、自分を求めているものが必ずある。

「成すべきこと」が必ずあるのです。

この「成すべきこと」を成し、それを自覚するとき。

私たちは心から「納得」することができます。

無事に責任を果たした安堵感にも似た「納得」を得ることができるのです。

それはやりたいことをやっているときのような「興奮」とは、まるで違うもの。

「これでいいんだ・・・」という、疑いようのない深いふかい「納得」。

それこそが「生きる意味」を実感する瞬間です。

「ちょっと待って!」

「椅子に座るのが生きる意味?」

「そんなんで、生きる意味が感じられるわけないでしょ!」

ごもっともです。

たしかに、その「役割」のなかにも、「生きる意味」を感じやすいものとそうでないものがあります。

それが現実ですよね。

そこで次回は、「生きる意味」を感じやすい「役割」をいかに見出すかについて、お話ししたいと思います。

生きづらさ専門カウンセラー
脱世間起業塾Adic塾長
しのぶかつのり

▼つづきはこちらから


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